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「やりたいこと」とか「ワクワク」とか、もうどうでもいい。その先。あるいはその前。 サンプルとして生きる。

いままでわたしが「やりたいこと」だと思ってやってきたことって実は少し違ったんじゃないか? 「いのち」って、「生きる」って、そんなヌルい、ちっぽけなこととは違うんじゃないか??

「やりたいこと」とか「ワクワク」とか、もはやどうでもいい。

遠回りしたのかな?
いやいや、道草を食らいまくるのもオツなものよというおはなし。

※2015年10月23日はてなブログに投稿したものの再投稿です。


●やり尽くした 

今年(※2015年)の3月末ころに呆然としていた時期があった。

「やりたいこと」会社辞めて、国内国外、1年の4分の3も家あけて旅しまくって、各国いろんな乗り物にも乗りつくしたし、いろんな宿泊形態も堪能したし、ヒッチハイクもしたし、サイコロ振って行先未定の旅もした。あと残りは歩く、かな。

そうだ、東海道五十三次を歩こう!

になって、日本橋から何日かかけて歩いて小田原に達し、ネットカフェで夜を過ごして早朝小田原城をうろうろしていた時にそれがやってきた。

 

あ、やり尽くしちゃった。

旅、もう、いいや。

 

会社辞めてちょうど丸1年だった。


最後のやりたいこと納めが「ネットカフェに泊まること」だったのも面白い。確かにやってみたいことの1つだった。で、それが完了して、わたしの中で1つ終わった。

なんで終わるのか、これが本当にやりたいことだったら終わるってあるのかな?
という疑問もあったが、流した。

それよりなにより、虚しくて。呆然としてて。
言いようのない感覚だった。

 「やりたいこと」「ワクワクすること」やったのに・・・。

 

 

●「他人の」やりたいこと を生きていた??


その感覚、違和感はずっと消えなかったけど、
それでも相変わらず旅を続けた。

もともと金が尽きるまでやろうと思ってて、いよいよ尽きるな、ってなると意外なところから臨時収入が降ってきたりして継続できた。

これって、まだまだ働くな、ってことなのかなーと思った。

旅をしてるとやっぱりそれなりに胸が熱くなる体験や出会いがあって、ああ、やっぱいいなー、で、胸の奥に眠る小さな違和感を上書きしていた。
別にそれを掘り起こさなくても十分OKな日々だった。


それが先日クアラルンプールに行って素晴らしい経験をして、完全に抜けた感覚を味わったことで、この小さな違和感に誤魔化しが効かなくなってきた。

 

で、ある人に話した。するとこうシンプルに返ってきた。

 

「それってやりたいことじゃなかったんじゃないですか?」
「みんなが(他者が)思うやりたいことだったんじゃないですか?」

 

確かに。
確かに。
確かに。

 

旅って、象徴的だし。
なんか、自由って感じだし。
そうだったのかな。確かにそうだ。それもある。

わたし自身、じゃなくって、みんなというか、世間一般のよくあるやりたいことやっちゃった?
共同幻想のやりたいことをやっても結局虚しい。

 

 

●青春のやり残しを成仏させた


そしてもう一つは、若いころにやりたかったのにやってなかったことを今やった、っていうのがある。学生時代はバイトやら恋愛やらが楽しくて「やりたいなー」と思っていたのにやってなかった心残りを1年で一気にやった。当時は一人旅とか、びびってできなかったし。

昔、やり残したことをやり尽くした。
そっか。そりゃ終わるよね。

やり残したことが「成仏」した、ってことですな。

年齢を重ねてからこじらすといろんな意味で高くつくよ。若い人は今のうちやっちゃえ!人生積む前にツモれ!

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●それでも素晴らしい道草だった

いま、思い返しても本当に胸が熱くなる。
遠回りしたかもしれないけど、ほんとうに素晴らしい道草だった。

この期間に出逢った人たち。一緒にいた時間の長い短いは関係ない。

ほとんどすれ違っただけの一期一会だけど、ほんとうにみんな大好き。心から愛しています。どれだけわたしを励まし、勇気づけてくれ、価値観を変え、楽しくさせてくれたか!!

道草の途中で出逢った人たち、一人欠けてもいまのわたしにはなり得ない。年下のお友達が多いけど、よく受け入れてくれたな、と思う。

 

そして、よくここまで自分を諦めずにこれたな、と思う。
2013年6月30日まではずーっと自分を諦めてきてたから。

わたしには明確な転機があるんだけど、それはまた別のおはなし。

 
 

●生きている、ということ。いま、存在しているということ。自分の可能性を完全に信じるということ


「生きている」この圧倒的な存在の前で、この圧倒的な美しさの前で、
圧倒的な神秘のまえで、「やりたいこと」とか、「ワクワク」とか、
そんなことさえクソでしかない。

 

「やりたいことがない自分」には価値がない、なんて、どうして思っていたのだろう。そしてなぜ奥底でそう「思い込んで」いたのだろう。

 

やりたいこと=人の役に立つこと


って、無意識に思い込んでいたんじゃないのか??

 

何者でもない自分は生きてていいのかな?なんて、生きてていいに決まってる。だっていま、そこに存在しているってことは、いい、ってことだもん。
それが何かはわからないけど、自然界ってそういうことなんじゃないかな。

 

だからもっともっとセルフィッシュでいいんじゃないのか?

 そうでなければ、結局は誰の役にもたたないんじゃないか?

 そもそも、誰かの役になんてたてない。

 

みんな「自分で決めて」「自分で」生きていくしかない。

もし、あるとしたら、生きざまとか在り方を「感じてもらう」くらいのこと。

 

 


●サンプルとして生きる
  

わたしは勝手に自分が生きたいように生きる。
みんなそれでいいと思う。


そして、わたしが勝手に生きている姿を1つのサンプルとして、良くも悪くも参考にしてもらえればそれでいいのだと思う。


 わたしはあなたにはなれないし、あなたはわたしにはなれない。

この段階で唯一無二。すごくない?

 

誰かに影響力を及ぼす、とか、誰かのためにとか、上からアドバイスなんて、できない。
嘘くさい。

 

もしかしたら勝手に生きていくことそのものが誰かにとってのラブレターになるのかもしれない。

 結局、そういうことなのだと思う。 

 
わたしはわたしにしかできない、わたしにしか歩けない道を
もう、すでに、歩き出していたんだね。

実は気づいてないだけでみんなそうなんじゃないかな。

それなのに、他者の評価や意識の中を歩いていた。 

そりゃ虚しいよ。違和感あるよ。

 

わたしにしかできないこと。
わたしにしか歩けない道。


そこを歩くその瞬間、きっとわたしは「生きている」

 

そして、もしも、もしも、

その先に、誰もいなかったとしても、
それでも。
それでも。

 

わたしには見たい世界があるのだ。

だからわたしは今、ここにいるのでしょう?

こうして文章を綴っているのでしょう??

あれ、誰に向かって言ってるのかな?
えへへ。

 


ワクワクするためにでも、やりたいことをするためにでも、ましてや幸せになるために、でもなくって、

ただ、ただ、


わたしは「自分自身を生ききりたい」ってきっとずっと思ってたんだね。
気づかないふりしててごめん。

 

ただ、いのちを、存在を、生ききりたい。

 

わたしにしかできないこと。


もしかしたらそれは「他の人から見たら」とっても地味でとっても小さなことかもしれない。くだらないことかもしれない。役にたたないことかもしれない。


だけど他の人とか、どうでもいい。


わたしにしかできないこと。

わたしを生ききるということ。

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きっとほんとうに小さなことだね。
些細な日常。
その先に広がる見たい世界。


それだけだったはずなのに。

 

幸せにすら、なってもならなくても、本当にもう、どうでもよくって、
ただただ全部を使って、わたしすべてを使って、この人生という神秘を味わって、生き切って、ふわっと、「いやー、マジ、堪能しちゃったなー」とか言って死にたい。

 

堪能の中には、ポジティブな感情や出来事だけじゃなくって、ネガティブな感情や出来事ももちろん入るよ。

 

このいいとか悪いとかポジティブだとかネガティブだとかのジャッジも、そういう自分の勝手な判断もどうだっていい。
ましてや「他人が思う」幸せとか不幸とか、本当に、ほんとうにどうでもいい。

 

ジャッジする必要ある?

いい、も、悪い、も、ある??

 

それさえも思い込みだとしたら??
気のせいだとしたら??

 

まあ、そんなものに振り回されてる自分も、これもまたオツなもの。

 

おっと、洗濯終わった。
長くなりそうなので続きはまた・・・。


※2015年10月23日投稿『ごろ寝発電』より。

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辻 和美
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