旅の深みにハマる瞬間。流れに乗る。信じるか、疑うか。
海外ではよくあることだが、対向車線大きくはみ出してくる車やバイクやいろんなものを避けながらみんな平気で運転している。人もガンガン道路を横切る。当然日本に比べて事故も多いけど、カオスの割りには事故は少ない気もする。街には一定のリズムがあってみんなそのリズムに乗って動いている。
リズムを外すと即死
一度びびって立ち止まってしまったことがある。本気で車に轢かれかけた。バイクの兄ちゃんが私を避けて転びかけた。
一定の街のリズムに乗って全てはカオスながら流れている。びびって立ち止まるなどあってはならない。流れを信じて流れに合わせて道を渡るのだ。余計な恐れは命とり。流れに乗る。これ大事。ほとんど人生訓。
信じるか疑うか
初めて一人でシェムリアップの道路を歩いて横切らねばならなかったとき。とてもじゃないけどあの中に突っ込んでいく勇気がなくて経ち尽くし、車は途切れなくて困り果てていた。
それまでさんざん「トゥクトゥク乗れ~」と誘われていた。その大合唱を振り切って道路を見ていた。すると一人のトゥクトゥクドライバーがやってきて「どうしたんだ?」と聞いてきた。さっききっぱり乗車を断ったおっちゃんだ。「あのクリーニング屋に服を取りに行きたい。渡りたいけど無理です」と言うと何やらジェスチャーしてる。「服もらってきてあげるよ」。だけど金持ってとんずらとかヤダと思ったので「一緒に渡ってくれますか?」で、一緒に渡ってもらった。チップ、アテにされてるのかな?エジプトでの旅で気を抜いたら金要求される、ここは日本じゃない、という感覚が染みついていた。
無事戻ってきて、おっちゃんは「じゃあね。」と爽やかに去っていった。ただの親切だったのだ。100パーセントのただの親切。「金か?金が欲しいんだろ?」って思ってしまった自分を猛烈に恥じた。それまでの緊張も加わってその場で泣いてしまった。そしたらビックリしたカンボジア人がわらわら寄ってきて「どうしたんだ?」と慰めの嵐となり軽く騒然とした。いろんな感情がごちゃ混ぜになって余計に泣いてしまった。
疑った自分。ただの親切だったおっちゃん。人を信頼しようと思った。泣いている外国人を心配する人々。優しさ。多分、わたしはこの時点で完全に「旅」の深みにハマったのだと思う。自分をかき乱される、自分を突き付けられる「旅」というもの。
エジプトでの「くっそー、気ぃ抜いた、やられたー」って1ドル取られたり取られなかったりもある意味楽しかった。毎回勝負、みたいな感じで。基本は「そうくる?」って感じの意表を突いた攻撃のオンパレードで毎回負け続けたのだが。
面白くもあったけど、半分本気でうんざりもしていた。不信感バリバリだった。カンボジアの親切とエジプトでの駆け引き。
今なら、って思う。あんだけヤラれてもまたエジプトに行きたい。アジアの道も一人で渡れるようになったし、どこに行ってもみんなめちゃくちゃ親切にしてくれる。
「旅のスタイル」が変わったからだろうか。観光よりも暮らしに興味がシフトしていることと以前に比べて圧倒的に金がないので出逢う人たちが変わった。
それともあの出来事をきっかけに「信頼」をベースに動いているからなのか。多少のことは面白がって笑い飛ばせるようになって気にならなくなったからなのか。まったくもって謎だが、今は親切な人にしか会わない。嫌な思いを全くしない。この現象はなんだろう。
人を信じると決めた。が、その「言葉」を信じてはいない、ということはよくある。状況を見てそこはシビアに判断している。
目の前の人を信じる。100パーセント信じる。だけど状況やその状態で発せられた言葉は注意深く聞く。人は間違うものだから。
自分も同じ立場だったらツーリストトラップぐらいやるかもしれない。可能性は否定できない。だからそこは見極める。それでもあかんかったら、もう、それは、しゃーない。相手のせいにはしない。後はそんな自分を爆笑するか、怒り狂うか、解決策を練るか、ネタにしてブログ書くか、泣きながらだんなに電話するか、どれかを選ぶだけだ。
世界は信じるに値する。信じて流れにのる。丸腰で飛び込む。余計な恐れは命取り。だけど注意は怠らない。そして出逢う全ての人たちに敬意をもって関わっていきたいと心から思う。
※2016年8月24日『ごろ寝発電』にて掲載。・・・・・・2020年9月3日追記:たった4年で世界がこんな風に変化するとは思わなかった。次はいつ旅に出れるかな。みんな元気だろうか。間違いなくたくましく元気なんだろうな。