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ポメラ日記90日目 檸檬のチューインガム

屋外で文章を読むときの記憶について

 先週の週末に時間があるので一人で公園に行った。平日はいつも街中にいて、人、人、人、の繰り返しなので、そこから離れられる場所に行くのは合っているような気がする。鞄にはポメラと本とちょっとした小銭だけを入れてもっていく。

 公園といっても色々あって、ゆっくり歩ける歩道のコースがあるところや、大きな溜め池があったり、子ども向けのところがあったりするのだけど、なるべく自然が多く残っているところがいい。
 
 街中にいると車の排気ガスや、やかましい人の笑い声、革靴の足音に囲まれていたりする。そういうところから離れると、ちょっとした非日常を体験することができて、考えごとをするにはちょうどよい。

 持っていった本はポール・オースターの「ガラスの街」で、主人公が街中を移動し続ける話なので、読んでいる本の内容と状況を合わせてみた。

 知らない街へ行くことの効用は、「誰でもない自分」になれること。すれ違うすべての人が見知らぬ人なので、精神的にも楽に感じる。

 この間は、書店の横にあるベンチに座って1時間くらい本を読んでいた。季節はもう秋になっていて、羽織っていたジャケットの袖を風が通り抜けていった。頁をめくる手も少しかじかみはじめて、昔、東京にいて一人暮らしをはじめた頃のことを思い出したりした。

 アルバイトが終わってから、夜の公園でベンチに座ったまま、街灯が消えるまでブックオフで買った本を読みつづけていたことがある。

 部屋のなかや喫茶店のなかで読むような読書とは違う、手やスニーカーには洗い物の薬剤が染みついていて、暖房の効いた部屋もない。そういうところですがるように読んだ文章が、どこかで自分を支えていると思うことがある。

 記憶にはたぶん、外の空気の風の匂いとか、ジャケットの内側まで浸みてくる冷気とか、スニーカーの色が剥げ落ちていった染みの色とか、あるいはアルバイトで一杯いっぱいになっていたときのなんとも言えない息苦しさや、誰ともわかり合える人がいないと感じるときの胸の痛みとか、そういうことばかりを覚えている気がする。

 本の記憶がすっぽりと抜け落ちていてもかまわない、ただ風が通り過ぎていった、言葉が通り過ぎていった、それでも指先で本にしがみついていた、そのときの記憶があれば、僕はそれでいいと思う。


檸檬のチューインガム

 スーパーのレジで会計を済ませるとき、チューインガムが目に留まった。

 レジ前のガムは、明らかに客の購買点数を増やすためのものなので、いつもは買わないようにしているのだけど、どういうわけか素朴な檸檬のイラストがパッケージに印刷されたチューインガムが気になってしまい、会計がはじまる寸前で買い物カゴに放り込んだ。

 最後にガムを買ったのはいつのことだったか、あまり記憶にないので、もう五、六年くらいは買っていなかったと思う。レシートを見ると檸檬のガムは百円で、物価高のいまもそれほど値上がりはしていない。

 アパートに戻ってポメラで文章を書くとき、口がさみしくなるので、檸檬の板ガムを噛んだ。大阪のおばちゃんはよく飴を持っているというけれど、たぶんそれは口がさみしくなることの他に、飴をあげることが会話のきっかけや糸口になったりするからかもしれない(飴を渡すのは相手に黙って話を聞いて貰い、自分が思いきり話ができるから、という関西人ジョークもある)。

 家に帰っても話す相手もいないので、檸檬のガムを噛みながら文章を書いている。梶井基次郎が現代にいて檸檬のガムを噛んだら何て言うのだろう? そんなどうでもいいことを思いついたりする。檸檬の板ガムじゃ爆発しそうにもないし、あの八百屋で見た慈姑(くわい)や人参葉の鮮やかさも、夜の電灯が錐のように眼に射し込んでくる光景もなかっただろう。梶井基次郎が感じた檸檬はあの時代のなかにしかない。 

 この時代には何があるだろう。インターネット、コンビニエンスストア、コンピューター、スマートフォン。タイプライターはなくなった、ワープロもいまはなくて、ポメラ。

 便利な時代にはなったけれど、どこか人は遠ざかっていく気がする。いや、昔から人と人の間は遠かったのかもしれない。ただ、関わらないと生きていけないことが減っただけだ。

 僕がものを書いているのは、たぶん誰かに向かって話がしたかったからかもしれない。話題なんてべつに何だってよかった。大阪のおばちゃんが仲良くなりたいひとに飴を渡すのと同じだ。

 街中で歩く人を平気でつかまえて話をすることは僕にはできない。お笑い芸人でもないし、現実の僕は口下手で、人前に出ることも初対面のひとと世間話をするのも、ちっともできやしない。大阪のおばちゃんの方がはるかに話上手だ。僕は誰かに渡せる飴ちゃんを持っていない。

 でも何にも話さずに一生を終えるにはあまりにも長すぎるから、黒板みたいな何にも喋ってくれないスクリーンに書き残しておこうと思っただけだ。
 
 僕が書くものは誰も読まないかもしれないし、あるいはそうでもないかもしれない。でも、同じように街中で口が利けずにいるひとの何かの足しになれば、僕がここにいたことにも意味はあったのかもしれないと思う。

 チューインガムを食べ終わったので、今日はここまで。また来てや。

 2024/11/11 18:59

 kazuma

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