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ポメラ日記83日目 デルモア・シュワルツ「夢のなかで責任がはじまる」を読み解く
デルモア・シュワルツ「夢のなかで責任がはじまる」を読んだ話
いま読んでいる本がある。デルモア・シュワルツの「夢のなかで責任がはじまる」という本だ。
この本を読みはじめたきっかけは、サリンジャーだった。ナボコフが「サリンジャーに並ぶアメリカの作家」と言ったらしく、そこまで言うなら、と思って読みはじめた。
ナボコフがサリンジャーに並ぶと言うので。 pic.twitter.com/yeGVciHCKN
— もの書き暮らし(kazuma) (@kazumawords) August 14, 2024
僕はわりとサリンジャーが好きで、「サリンジャーと並ぶ作家」といわれてもあまり思いつかなかったので、どんなものか怖いものみたさで手に取った。
とりあえず表題作を通しで読んだ。デルモア・シュワルツは生前はあまり評価されなかった海外作家らしく、唯一、名高く残っている一冊が表題作「夢の中で責任がはじまる」を含んだ短編集になる。
読んだ本の感想について、あまりネタバレせずに話すのは難しいのだけれど、この小説をちょっと手ほどきしてみようと思う。
「夢のなかで責任がはじまる」の小説の手ほどき
「夢のなかで責任がはじまる」は、全編を通して、映画館のなかにいるひとりの青年の視点で語られる。
ただこの「僕」が観ているものは、ちょっと異質。映画館で自分の家族のホームムービーが流されている、という体で物語がはじまる。もちろんホームムービーは映画館で流すような代物じゃない。
読みはじめて、奇妙な感覚がはじめからあった。映画のなかのストーリーは、『僕』が生まれる前の時点、つまり父や母がどのように出会い、どういう流れで二人が結婚することになったかが語られている。つまり、本来、「僕」が知ることのないはずの「生まれる前の両親の物語」だ。
結婚の末に生まれることになるのは、もちろん「僕」だ(ただし、「ぞっとする性格のふたりの子どもが生まれるんだ」と言っているので、「僕」は一人っ子でなく、双子かきょうだいかもしれない。「僕」が一人で、嘘をついていないのだとしたら)
息子である「僕」が家族のストーリーを映画館で観ている、という状況がまず奇妙だけれど、もうちょっと踏み込むと、「『僕』はこれを観てていいの?」という疑問がまずあった。
一人称の回想に見えるんだけれど、登場人物たちの心情(というか考えていること)を見透かす視点で書いているので、一人称に擬態した神視点の小説だと思う。
面白いのは、「僕の家族(つまり父や母のなれそめ、祖母や祖父の気遣いや心配)」をまるで他人事みたいに観ていることで、ひたすら状況描写のみで書かれている。
一人称だけれど、主人公の意見はまったく地の文で出てこない。というか、この「僕(自分)」すら他人事のように描写される。ひたすらスクリーンのなかの映像を観ているかのように錯覚させられる書き方をしている。
状況(シチュエーション)と文体を一致させる書き方。それで終わりまで行くので、デルモアが意図的にやっているのは明らかだ。
そのおかげですらすら読めてしまうのだけれど、この物語が「すらすら読める」のはちょっとおかしい。
最初の第一パラグラフの書き出しは「一九〇九年だと思う。」という曖昧な書き出しからはじまる。その割には第二パラグラフで「一九〇九年六月十二日日曜日の午後のこと」と書き出しているので、まるで第一から第二に移るたった数行の間で、「僕」の「ピントがはっきり合った」ように見える。普通の作家なら、たぶんこういうことはやらない。でも、映画館のシートに座って見ている『僕』の視点を読者に追体験させるには、効果的な書き方になっている。
作品について部分的なテクニックを取り上げても、作品の全体像が見えてこないので、もう少しだけ内容を掘り下げてみよう。
二十歳の「僕」は、映画館のなかで、「父と母がいかにして付き合い、結婚することになったか」を、回想するように見ている。
映画のなかの登場人物は「父」と「母」と「祖父」と「祖母」で、それ以外の主要な人物は出てこない。
物語のなかで家族の描写がなされるのだけど、実は家族の「固有名詞」はひとつも出てこなくて、登場人物には「名前がない」。
この「名前がない」というのは結構重要なポイントだと僕は思っている。
というのも、普通に小説を書くとしたら、登場人物には「名前」を付けた方が分かりやすい(書き手も読み手も)。
登場人物に「名前がない」方が珍しく、たぶんこれは英語だと「He,She,They,I」とか、あるいは「father,mother」とか、一般的な代名詞しか使っていないはずだと思う。
おまけに今回の物語は「家族」についての話で、書き分けのために便宜上、名前があった方が便利なのに、まったく出てこない。
こういう場合には、作者は「故意に」彼らに名前を付けていないはずで、名前を与えていないことにはそれなりの意味を持たせている、と考えた方がよい。
物語を読み進めていくと、この物語の主人公の『僕』は、家族というものに対してあまりよい感情を抱いているようには見えない。
映画館のなかで、「父」と「母」が仕方なく結婚に向けて妥協し、くっつきそうになるとその結末は「ぞっとするような性格の二人の子ども」が生まれるだけ、と叫んだり、言葉の端々に自身の家族を遠ざけるニュアンスが含まれている。
デルモアが、家族に名前を付けなかったのは、この「僕」の家族への拒絶感をあらわすために、登場人物に「名前を与えなかった」のだと僕は考えている。
「夢のなかで責任がはじまる」では、直接、「僕」の口から「僕」の思想や核となるものが語られるのではなく、その外側(描写のみの文体や登場人物に『名前を付けない』ことによって)で語られる。(これが文学の基本的なやり方なのだけれど)
唯一言及があるのは、「僕」の両親がスクリーンのなかで結ばれないような展開になったときで、映画を観ている「僕」は、「サーカスで頭上100フィートのところから綱渡りの綱が切れそうな」気分を味わう。
なぜって「父」と「母」がくっつかなければ、映画を観ている「僕」は生まれないことになるから。
物語のなかの「僕」は、家族に対しては穏やかでない拒絶感を抱いているわりに、自分の存在が消える可能性に出くわすと、途端にそれを怖れる。
つまり、主人公の「僕」は、家族によって自分が誕生することに対しては否定的であるにもかかわらず、既に存在してしまった自分自身が消えることに対しては、怖れを抱いている。
1900年台のアメリカにおいて、「家族」がどのように捉えられていたか、いまいちぴんと来ないのだけど、「登場人物に名前を付けない」物語には思い当たる節があって、それがトルーマン・カポーティの代表作「ティファニーで朝食を」だ。
猫に「名前を付けなかった」もう一人の作家、カポーティ
デルモア・シュワルツが生きたのは「1913年~1966年」で、トルーマン・カポーティは「1924年~1984年」を生きている。
つまりデルモアは、「家族(制度)への盲目的な肯定」を20世紀のはじめに拒絶した作家で、「登場人物に名前を付けない」ことによって、作品のなかで遠回しに態度を表明している。
デルモアは、「夢のなかで責任がはじまる」の1作で、「新時代の代弁者」と呼ばれた。のちにカポーティが感じ取った問題を先取りしていたのかもしれない。
ちなみにカポーティの「ティファニーで朝食を」では、ヒロインのホリー・ゴライトリーは拾った猫に「名前を付ける」ことを頑なに拒んでいる。ホリーにとって「名前を付ける」ことは「家族になる」ことなのだ。
「ホリー・ゴライトリー」というのも、実際の本名ではなく、源氏名のような社交界における名前で、本名は「ルラメー」と言い、もとは農場で拾われた孤児だった。
14歳で訳も分からないまま、農場を営むドク・ゴライトリーと「結婚」するが、ホリーはそんなことは馬鹿げていると言って(もちろん馬鹿げている)、ニューヨークの社交界に逃げ出してきたのだった。
このホリーも「誰かと家族になること」を怖れている。ホリーは、男も女も、出会う人を片っ端からとりこにしていながら、誰とも正式に付き合うことなく、最終的にはアフリカへ高飛びする。
「ティファニーで朝食を」は、パラマウントの映画で取り上げられ、ジュエリーブランドの「ティファニー」や、人気絶頂のオードリー・ヘップバーンが演じたことで「華やかな世界の物語」と思われがちだ。
でも、そうした華々しい社交界はあくまでも表向きで、カポーティは、その裏側の影の部分にスポットライトを当てた。
文学には連続性があり、過去の作家の問題を継承する
小説などの芸術のジャンルは、生まれた作品にその時代の声が反映されるという。
作家の仕事は、作品を作ることなのだけれど、一見ばらばらに見える個々の作家は、どこかで問題意識を共有していて、異なる作品同士のあいだに連続性が垣間見えることがある。
デルモア・シュワルツとカポーティのあいだで直接の関わりがあったかどうかは分からない(僕はないと思う)。
でもデルモアが、「家族」という、社会通念上は常に肯定されがちな価値観に対して、何か薄ら寒いものを感じ取っていたことは想像に難くない。
さらに時代が進んで、都会的なニューヨークの社交場で、華やかな繋がりを持った人々(セレブリティ)が、実は内面上に孤独を抱え、「家族」を遠ざけたさまを、カポーティは「ティファニーで朝食を」で描き出した。
僕は、デルモアが感じ取っていた「ぞっとするような(この単語は物語のなかで頻出する)」家族関係への拒絶の感覚は、カポーティの登場人物(ホリー・ゴライトリー)に問題意識が受け継がれていると見てよいと思う。
作家が作品を書くときは一人なのだけど、どんな作家も作家である前に、その時代に生を受けた一人の人間なので、優れた作品には、その時代の空気感が自然と生きている。
既に先行する優れた作品が、世の中にはごまんと残っているから、もう作家が書けることなんて何もないと言う人がいるかもしれない。
でも、いまの世代には、過去の世代が感じることのなかった、いまの時代の空気感や問題意識があるわけだから、僕らは僕らで書いていかなくてはならないものごとがあると思う(たとえ明治や大正、昭和の文豪がどれだけ凄かろうと)
サリンジャーやカフカ、梶井基次郎みたいに、その作家に固有の感覚にこだわり、同時代の周囲の作家とはぜんぜんべつの問題意識や方法論を持ち、特異点的に存在する作家もいるかもしれないが、やっぱりそういう作家も、長い目で見れば、後発の作家達によって連続性の起点になったりしているはずだ。
僕たちがひとり残らず作品を書くことを止めないかぎり、文学は連続性のなかにある。
そして作品を「読む」ことはその大きな流れの一部に加わることだと思う。
アマチュアだからといって、「書く」こと、「読む」ことに意味がないなんて僕は思わない。
たとえ作品という形で結実することがなくても、文学に触れたことが、日常生活のどこかで、意識もしないうちに、活きている瞬間があると思う。
2024/10/01 20:54
kazuma
余談:文学ブログ「もの書き暮らし」で、「かばんの中身」企画をひとりでやってます。2年ぶりの「かばんの中身」記事なのでよかったらぜひ遊びに来てください。僕が現在進行形で使っている執筆グッズを厳選して取り上げています。
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