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ポメラ日記95日目 何を書くか、どう書くか問題

・ワードプレスサイトの勉強と実践

 僕はライターの記事制作をメインに活動しているのだけど、最近はワードプレスのサイトのデザインを少しだけ任されている。

 べつにいちからコードで組み立てるということはなく、既製のビジネス用のワードプレステーマから設定を行っているから、難しいわけではない。

 ただライター方面の知識では太刀打ちできないことが結構あって、たとえばロゴのデザインの位置やサイズ感、サイトのカラーリング、スマートフォン表示にしたときの見栄えなど、文章以外のところで作らなくてはいけないことが多い。

 いままでほとんど感覚だけでサイトを作っていて、「ほんとうにこれでよいのか?」という疑問が仕事中に頭のなかによぎるようになった。

 たぶんライティング系の会社なら、Web制作やマーケティングの専門家がいたり、熟練した先輩社員がいたりするかもしれないが、僕がいるところはそういうWeb系の職場ではなくて、福祉の現場なので、Web担当者がいない。

 これまでは業務について聞く相手がいたり、そもそもライターの記事制作は単独でもできたので問題なかったのだけれど、はじめて社内で業務について聞ける人物がいない=自分が担当するしかない、という環境になった。

 アルバイトみたいな立ち位置なので、そんなに勝手に一人でプレッシャーを抱え込まなくても……とは思っている。でも貰った仕事は何とかしてみたいという気持ちもある。

 これからもワードプレスのブログを軸にして活動を続ける予定ではあるので、専門のサイトデザインに関する知識も、少しだけかじったり、仕入れた方がいいのかなと思った。

 今年の目標としては、「ポメラ日記を100日目」まで持って行く、というのを数の目標として持っていて、何とかこれは達成したいなと思っている。

 一方のワードプレスの「もの書き暮らし」は70記事なので、ポメラ日記が100日目まで行ったあとは、「もの書き暮らし」に比重を戻していきたいところ。

 「ポメラ日記」は雑記として書いているので、好きなことを書けるから楽しいというのはある。でもやっぱり自分の好きなことだけ書いていても、どうしようもないんじゃないかという気持ちもある。

 「役に立つもの」と「好きなもの」、そのバランスをうまく取りながら、ライティングやブログ更新そのものを楽しめるようになりたいなと思う。

・何を書くか、どう書くか問題

 最近、読んでいる本は「夢のなかで責任がはじまる」や「喫茶店文学傑作選」を行ったり来たりしている。

 デルモア・シュワルツの小説を読んでいて、なんとなく小説のなかにデルモアが大事にしていた世界が描かれているのかなと感じる。

 小説って、その人の人生にとってかけがえのないものを語っている場合もあれば、いやぜんぜんそういうことではなく、ただ面白いと思う話を語っているだけなんだよ、みたいなものもある。

 厳密にふたつを分けることはできなくて、なんか面白い話を考えていたら、いつの間にか書き手の大事にしていたものも話のなかに滲んで見えるパターンがあったり、あるいは、もうこれを語るより他にないってものを選んで真剣に書いていたつもりが、途中からなんだかふざけたくなったり。

 どちらに優劣もなくて、読み手によってその小説の価値って変わるものだろうけれど、僕はやっぱり書き手がその一生のなかでずっと感じていた感覚や、いつまでもこだわりつづけていたもの、誰にも譲れないものが見え隠れする小説が読みたいと思う。

 デルモア・シュワルツの「この世界は結婚式」では、若者たちがずっと自分たちがアメリカ大恐慌という不遇な時代に生まれて、どう生きていけばよかったのか分からなかった、それぞれの登場人物たちの物語がある。

 とにかく劇作家としてなにかこれまでにないすごいものを書いて、ブロードウェイに認められたかったが、段々と現実が見えてくるジェイコブ。弟のジェイコブのサークル活動を献身的に支えて、自身はデパートの仕入れ係になり、ゆくゆくは弟が結婚相手を連れてきてくれないかしら、と考えていたローラ。哲学教師になりたかったが、才気走った点を教授陣に見とがめられ、就職先を潰されてしまったエドマンド……。

 この短編に出てくる若者は、みんな学生の頃に望んだ道には進めず、青年時代の終わりは、自分が考えていたところとは違うところに着地する。

 夢を諦めて地方の女学校で劇を教えることになるジェイコブの諦めや、自分にはふさわしい結婚相手がどこかにいたはずなのについにその相手を得られなかったローラの憤りも、作者のデルモアが既に通り過ぎて、感じていたことをキャラクターとして表現したのではないかと思ったりする。

 文章を書く人は、言葉にすることで自分のなかにあった感情や考えていたことをはじめて客観的に眺められるようになる、と僕は思っている。

 小説を書くときは作品がひとつできるまでに数ヶ月~数年かかったりすることも珍しくない。作品として表現しようとする場合、一文一文には読み手が想像する以上の時間が掛かっている。

 誰かにじかに話したり、行動してしまえばすぐに解決することだろう、と周囲の人間は思うかもしれない。文章を書く人間は、ノートやスクリーンの前でにらめっこして座っているだけの阿呆で、実際に汗水垂らして働いている人間に比べれば遊んでいたり、怠けているように見えるものかもしれない。

 でも文章を書く人のなかで起こっていることはそういうことではないと思う。すぐに誰かに話したり、行動してどうにかなることではないと分かっているから、ゆっくりと時間を掛けて、ペンを走らせたり、街中でぼんやりしたり、何度もタイプした原稿を打ち直しながら、しっくりくる言葉を探している。

 書き手はそういう「ものすごく遠回り」な、迂遠な方法を使って、自分のなかにあるものを慎重に外に運び出していく。なんでかは分からないし、自分が運び出しているものが何かも知らないけれど、そうやって外に運ぶことが大切なことは感覚的に知っているのだ。

 物語のなかでしか語れないものごとっていうのは、たぶん生のままで誰かにそのまま話しても伝わる可能性がほとんどなくて、行動することによっても解決することができなくて、下手をすると自分ひとりが胸の内に仕舞って、墓場まで持って行くことしかできない。そんな風にどうやっても割り切れないものを描いていて欲しいと思う。

 いまの書店に並んでいる本を見るとそういう重苦しいものは敬遠されがちに見えるのだけど、僕は作家がぎりぎりのところまで思い詰めて、それでもまだその向こう側へ行こうとするような文章が読みたい。

 そうやって昭和の文豪は皆死んでしまったじゃないか、芥川も太宰も三島も川端も、あれだけ書いて最後は自らこの世を去ったじゃないか、そうやって思い詰めて刃が零れるまで書いていくことが正しいのか? 書いた作品がたとえどんなに素晴らしいものであっても、作家本人が潰れてしまったら、いくら物語のなかに美しいものを遺しても、人生を作品の方に合わせに行くことにならないか? 最終的に行き着くところがこの世界に希望なんてない、と説くことになるのなら、ただ終わりに向かっていくだけのバリエーションがあるだけではないか? いまの時代に個人のちっぽけな懊悩を描いたところで、誰が読む? 道行く人はその人の文章を読んで心を動かされるか? 毎日、生きていくだけでへとへとになって、列車で本を開く気力さえなく、ただただ追い立てられるように働くしかなかった人に、でんと椅子に座っていつまでも部屋の中に閉じ籠もって書いた文章が響くことはあるのか? 小説で人生の意味を問うことなんてばかげている、書くならもっと意味のないところからはじめたまえ。

 何となく書店の本棚の前に立つと、そんな風に言われているような気がしてしまう。きみの悩みからはじめた小説はかならず失敗する、もっと軽やかに書けるものが小説で、人生の意味を考えていたいなら哲学でもやっていればいい、カミュやヘッセがやったことは失敗している。

 昔の作家を乗り越えなければ、いま書いている意味がないだろう、同じ轍を踏んでも二番煎じにしかならない、だからつねに新しいものに向かっていかなくてはならない、それが文学なんだ、先人と同じことをしているようではいけないんだということは、前提として何となく分かるのだけれど、表現に新しささえあればそれですべてよしとするのか? それで現代の読者が気になりそうなトピックやテーマをちりばめて、少しでも本に触れる機会が作れれば御の字なのか?

 やっぱり僕はそれでも昔の作家の方に手が伸びてしまう。カミュやヘッセを嘲笑する現代作家が書いたものよりも、カミュやヘッセが書いていたものごとの方に真実味を感じる、そう思うのは僕が内容ばかりを見て、形を見ていないことの証左になるのだろうか。現実の生活を知らなくて、青臭いことばかりを考えていることになるのだろうか。ただ新しいだけでは、もの足りない。ヴォネガットの「スローターハウス5」のひと言を思い出す。『人生にとって大切なことはすべてカラマーゾフの兄弟に書かれてある。だけど、それだけじゃもう足りないんだ』。

 2024/12/02 21:43

 kazuma

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