ポメラ日記49日目 もの書きの夏休み
久しぶりに外にポメラを持って出かけることにした。新しい会社に移って一ヶ月が経つ。これまで通り、在宅ライターの仕事なので、なかなか出かける機会がなく、どうしたものかなと思っていた。
お世話になっている担当のひとに相談してみると、普段から運動の機会があった方が体調管理にもなるんじゃないと言われて、普段の体調の記録と一緒に運動記録を提出することを勧められた。
しばらくは「スーパーへ買い出しに出かけた」とか、「慣れない筋トレをやってみた」、とかそういうことでごまかしていたんだけど、そろそろ同じネタが重なってきたので、重い腰を起こして家の外に出かけることにした。
とはいっても、家の近所だと居心地がわるく、喫茶店に入るのも何となく億劫なので、思い切って橋を渡った向こう側の隣町まで来た。
いまは知らない街の、一度も入ったことのないハンバーガーショップに入って、この文章を書いている。
ちょうど手元にある本は、トルーマン・カポーティの『誕生日の子どもたち』という本で、『無頭の鷹』という短編を繰り返し、読んでいるところ。
『無頭の鷹』の主人公は、ヴィンセントという青年で、彼はニューヨークの路地に立っていたレインコートの女の子に出会ったことから、次第におかしなことに巻き込まれていく。彼女に出会ったせいで。
僕はこの話がけっこう好きで、何度も読み返している。
ヴィンセントは、どこか虚ろな目で街中の景色を眺めている。何かが起こることを待ち望んでいるが、自分が何を望んでいるかは本人にも掴めていない。
煙草を放り出してアンティーク・ショップの前を足早に立ち去る。 煙草を投げ捨ててから、はじめから煙草など吸いたくなかったのだという。
街中を歩いていてもどこか海のなかにいるみたいで、北に進んでいるのか、南に進んでいるのか、ヴィンセントにはわからない。ただ不吉なことが起こる予感だけは確かに掴んでいる。
それを言葉にしてはっきり言うわけではないが、ヴィンセントの行動にさしたる理由が見つからないことや、周囲のものを見るまなざしから、それらが伝わってくる。
*
ハンバーガーショップに行くまでの道筋で、これからどうやって文章を書いていったらいいか、考えていた。中短編の小説は一応、八つ書いたけれど、いくつかの作品は、完全なオリジナルではなくて、カポーティやサリンジャーの小説が下敷きにある。
僕はけっこう好きな作家の書き方を真似するのが好きなのだけれど、やっぱりそれを続けていても僕は自分の小説をいつまで経っても書けない気がするのだ。
カポーティがこの「無頭の鷹」に書いたような感覚は、読んでいると何となくひとりぼっちで街を歩くひとの心情をよく表していると思う。
それもこんな夏の晴れた日に気持ちよく歩いて行くような散歩ではなくて、十一月や十二月のどこかうら寂しい冬の街を歩いて行くような散歩の情景なのだ。
この「無頭の鷹」に描かれているような情感を、僕が自分で文章を書いて表現するとしたら、どのように書けばいいのだろう?
家のなかでちぢこまって部屋の中にいるときは、それがちっとも浮かんでこなかった。べつに外を歩いたってそれが分かる、というわけではないんだけど。歩きながらぐるぐる考えるという時間が、一週間のどこかに必要な気がしている。
僕はあんまり用がないときには絶対に出かけないタイプで、手元にポメラがあるから、という理由にかこつけて向こう街まで歩いた。
僕の夏も春も秋も冬も、最後はみんな書いた小説のなかにある。そういう風に生きていたいと思う。カポーティが残していったものも、そんなものではなかったか。
(了)
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