原爆ドームと鷺をながめた日
今日は、77回目の「広島・原爆の日」。
十数年前の秋、初めてその地を訪ねたときに出会った、ある光景を思い出す。
当時、書いた日記をもとに、覚え書きとして記しておく。
* * *
広島に着くと、ホテルに荷物を置き、すぐに原爆ドームへ向かった。路面電車に乗って「原爆ドーム前駅」で降りる。小雨の中、目の前にそれは佇んでいた。
テレビや本などで、その姿は何度も見てきたが、直接向き合うと、胸がいっぱいになった。焼け落ちて、鉄骨だけになったてっぺんに、鷺が3羽止まっていた。
川沿いに歩いて、平和の灯、「過ちは繰り返しませぬから」と記された原爆死没者慰霊碑を見てから、平和記念資料館へ。多くの人が詰めかけていた。
1945年8月5日までの広島の町と、8月6日の景観を対比させたジオラマ。
8時15分でストップしたままの時計。焼け焦げた衣服。変形してしまった陶器やガラス。被爆直後の人々の写真……。
とりわけ、原爆が爆発した地点を赤い風船で模したジオラマの、その「まん丸く」「赤い色」が強く印象に残った。
館を出た後、原爆投下のターゲットにされたという相生橋を歩いた。
雨脚が強くなってきた。灰色の空を見上げる。あの、赤い風船がよみがえってくる。
再び原爆ドームに立ち寄ると、鷺はやはり静かに佇んでいた。
* * *
明けて翌日。
雨は上がり、空は晴れ渡っていた。
朝食の後、再び原爆ドームへ向かう。青空の下での姿を刻んでおきたかった。周囲を何度も歩き、眺めた。
原爆ドームの脇を流れる元安川の川べりに座り、この場所で聴いてみたかった曲、ヒートウェイヴの「棘~the song of HIROSHIMA~」をCDウォークマンにセットして、繰り返し聴く。
僕は知らない
今流れるこの川の昔を
僕は知らない
水底に眠る絶望の砂を
(「棘~the song of HIROSHIMA~」)
*「棘~the song of HIROSHIMA~」、ここをクリックすれば聴けます。
資料館で気になった展示をもう一度見てから、国立広島原爆死没者追悼平和記念館を訪ねた。2002年に建てられた施設だという。
入場者は自分を入れて、数人ほど。BGMはなく、静けさがあたりを包む。円形の建物の中を、なだらかな坂を丸く下るように進んでいく。「祈りの場所」としてふさわしい建物のつくりだと思った。
被爆した直後の広島を360度写した写真が、円形のスペースの壁に映されているコーナーにしばし立つ。上から見下ろしていたのとは違い、その地に立ったような眺めに、呆然とする。
被爆者の証言を集めたビデオを観る。
被爆する前の子どもの頃のこと、近所のなじみの商店での思い出……。
言うまでもなく、そこには老若男女、一人ひとり名前を持った人が暮らしていたのだ。
* * *
広島市民球場で社会人野球の試合を観た後、もう一度、原爆ドームに行った。
すでに夕方になっていた。
鷺たちは相変わらず、鉄骨や壁のてっぺんに止まり、彼方を見つめていた。
70代とおぼしき夫婦も、その姿を眺めていた。
ふと、2人に話しかけてみる。
「あの鳥って、鷺ですよね?」
「そうでしょうね、鷺でしょうね」
夫のほうが見上げながら、そう答えてくれた。
鷺は親子なのか、仲間なのかはわからない。どうやら、川にいる魚を目当てにしているようだ。
3人でしばし黙って見上げる。
そして、私は思わず切り出した。
「昨日も鷺がいたんですよ。なんだか、この原爆ドームを守ってくれてるように見えるんですよね」
鷺を見たときに感じたことを、2人に聞いてほしかったのかもしれない。
すると、今度は妻のほうが言った。
「そうよねえ。彼らは自分がどこに止まってるのか、わかってないかもしれないけど、そう見えるわよね。これが、平和ってことなのかもしれないです」
3人で再び、原爆ドームと鷺を見上げた。
夕空の、静かなひとときだった。
【追記】
このとき、広島を訪ねた目的は、原爆ドームと平和記念資料館を見ること。そして、山口洋さんのソロツアー「on the road, again vol.2」の最終日(2006年10月1日、会場:Live Cafe Jive)に行くことだった。ライブのゲストは、THE GROOVERSの藤井一彦さん。