異邦人として生きること——。村上春樹と小坂井敏晶
外国に行く・暮らすということには、やはり意味がありそうである。なぜ、意味があるのか。あるいはなぜ意味を見出すことができるのか、その理由は人ぞれぞれなのだなと、当たり前のことに最近気がつく。というより、外国に行く・暮らすことの意味や、意義や、価値、なんでもいいけど、そのことに対して自分が自然に答としてもっていたものが、なんとなく変わってきているなと感じることも(最近になって)あるし、はたまた、他人に目を向けてみると、自分とは全然違う理由で外国に行く・暮らすことの意味を見出している人がいる。これは一体、どういうことだろう。
そもそも、なぜこんなにも「外国」というものを意識して私は生きてきたのか、また今でも意思していると言わざるを得ないのかと考えると、ある意味で日本人として生まれたところは大きいのだと思う。これがまた、例えばアメリカ人として生まれていたら、あるいはヨーロッパをルーツとしてもつ人間として生まれていたら、このようにはならなかったのではないか、と思う。ここに関して話すと終わらないから先に進むが、ある種「外国への羨望」が全くないと言われると、嘘になる。ただし「憧れを持っているから行く」という単純な理由からではないのもまた確かである。
外国に、身体ごと、あるいは言語ごと飛び込むこととは、一体自分にとって何を意味するのだろう。日本でまた暮らすようになって、アルゼンチンに行く前とはまた違った濃度で、そういうことを考えるようになった。
村上春樹と外国
村上春樹とはあの村上春樹で、正直言って僕は村上春樹の小説を読んだことがない。なぜ読んでこなかったのかは、本当にわからない。いつか読めばいいと機会を伺っていたと言われればそうだし、制御する何かがあったのかもしれない。ただ最近になって、村上春樹のラジオを聞いたり、小説ではないエッセイを読んだりしていて、これはもう小説を読まなければならないという気がしているから、もう時期読むんだろうと思う。
それはいいとして、村上春樹の『職業としての小説家』という本には、私はいろんな意味で影響を受けた経験がある。
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