
【スポーツ写真】 なぜその写真"だけ"惹きつけられるのか?
例えば写真展に行って写真を見るときや、書店に行って写真集で写真を見るときに「惹きつけられる」写真と、スマートフォンでSNSをスクロールしているときに「惹きつけられる」写真とでは、何か異なる法則が働いているのかどうかについて、考えてみたいと思います。
私がよくスマートフォン上で惹きつけられるフォトグラファーに、パリのPauline Balletという女性がいます。
私はなぜ他のものではなく、このフォトグラファーが撮影した写真に惹きつけられるのでしょうか。
前提として、スマートフォンでSNSをスクロールをしている時というのは、例外を除いてほとんどが無意識下の中であり、受動的で、記憶装置が働いていないことが多いと思います。
加えてSNSはご存知の通り、(スポーツの)写真のみがそこにあるではなく、無関係な領域の写真や、まったく別世界の映像、広告用のグラフィックなど、あらゆるものが乱雑に流れては消えていくカオスな世界です。
それらの情報群は、なにもランダムに<私>の前に現れてくるわけではなく、フォローをしているアカウントや、それに関連するもの、またデバイスに記録されている<私>の興味関心から制約がかけられた情報であることは周知の事実です。
よくある議論に入っていきますが、上記したような環境で受け取る情報と、自ら能動的に、且つ「それだけ」を見るための時間を確保し、作者が意図的にインスタレーションしている写真展に行って写真を見たり、また、能動的に書店に行き、必然的あるいは偶然的に手に取った写真集の中にある写真を見たときに受け取る情報とでは、間違いなく(良し悪しに関わらず)その写真がもつ「質」が変わってくるはずです。
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パターンを3つに分けて改めて記述すると
写真展で見る写真
書店で見る写真
SNSで見る写真
となります。
3について考えると、何よりもまず「差別化」という言葉が浮かんできますが、これは一歩間違えるとあらぬ方向に行ってしまう言葉だと思います。
例えばあるプロダクトを売ろうとした時、amazonのようなモールサイトで商品を売るのか、あるいはプロダクト独自のSNSアカウントやECサイトで売るのか、はたまた他のプロダクトと横並びになった状態で実店舗で売るのか、それによって「個体」がどうすれば「個体」であれるのか、その「個体」に宿る戦略が全く異なることは誰でもわかると思います。
モールサイトで売ろうとする場合、そのモールのアルゴリズムをハックし、とにかく「目立つ」ことを優先に個体戦略を構築するのが自然ですが、一方でそれは本来プロダクトが持ちたい世界観を壊してしまうことにも繋がります。
これを社会に置き換えると、人間という「個体」も同じ法則で存在しています。どのような人間たちと横並びで評価されるのかによって、高い評価を得ることも、全く逆の評価を得ることもままあります。
ここには、自らの評価を完全に「他との関係」に委ねてしまう(渡してしまう)こと=差別化によって、かえって個を失ってしまう=非差別化してしまうというジレンマがあるように思います。
「SNSで惹きつけられる写真のその理由」は、一歩間違えれば(モールサイトにおける「差別化」という観点から)「目立つ」ことではないか、という結論に到達してしまうと、意を唱えざるを得ません。
以上のような観点から、SNSでは「目立つ」ことを目的としてポストされた写真や、デザインされたグラフィックが大量に生産されていくのではないでしょうか。少なくとも「惹きつけられる」写真にはそのような性質はないように思います。
しかし結果的に「目立つ」のと、「目立つ」ことを目的として作られた作品とでは、それに宿る雰囲気に違いが出るように思います。
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ではなぜ、SNSで惹きつけられる写真があるのか。もちろんここで私なにか正解めいた結論を出せるような問いではありませんが、少なくとも考えてみることはできます。
まずは「被写体」の明確さ。誰が、どこが、あるいはどれが被写体(写したいもの)なのかが、明確になっていること。その明確さは、「唯一の被写体」と「それ以外」に分けられるほど、明確である必要があると思っています。
先ほどの3つのパターンで考えるとすると、「1.写真展で見る写真」と「2.書店で見る写真」にはある程度の時間が与えられていますが、「3.SNSで見る写真」には例外を除いて時間は与えられていません。
前回の「抽象化は時間を買う(稼ぐ)」に象徴されるように、SNSの写真が(写真をしっかり見てもらうために)時間を稼がないといけないのであれば、被写体の明確さ(何が写したいものか)は非常に大切であると予想がつきます。
それはつまり「伝えたいこと」が明確であるかどうか、が惹きつける写真であるかそうではないか、を分ける一つ目のポイントであるということを示唆します。
※この「明確さ」は、被写体との焦点距離(寄りの写真か引きの写真か)には必ずしも依存しないと私は考えます
ありきたりな結論に至ってしまいましたが、スポーツ写真をコミュニケーションだと定義すると、そのほかのコミュニケーション手段と同じように、伝えたいことが明確でなければ、あるいは限りなく絞られていなければ、当然何も起こりません。
言いたいことがありすぎて、絞れず、あれもこれも伝えようとしてしまうスピーチや、載せたい情報の全てを載せた結果何も伝えることができていないポスターなど、その例を挙げると枚挙にいとまがありません。
そのために「伝える技術」が必要で、話す技術と同じように、写真には撮る技術が存在しているのではないでしょうか。
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そのほかの活動を意図して撮影される写真は別にして、スポーツを「伝える」ために撮影され、そしてSNS上にポストされる写真は、伝えたいことが明確で絞られていて、それを伝えるための技術がある。そういう写真であるべきではないでしょうか。
Photo by Pauline Ballet
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視録的運動(シロクテキウンドウ)
スポーツのストーリーテリング記録運動。スポーツ領域のブランディングやデザイン、写真や映像、ストーリーテリングなどを考察するWebマガジンで…
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