第13話 │ 配慮
つい先日、友人を2人家に招き入れた。
夏休みということもあり、お昼からお酒を交わしながら新鮮な魚を握った。
2人のうち1人は、肉がとても好きでとりわけ西洋料理を専攻しているほどだ。
しかし、私は地元の名産でもある魚介をふんだんに使って握りや向付をある種の自己満で作りに作った。その友人は決し て魚が嫌いな訳でもないし、むしろお寿司は好きなのだ。
だけれども、やはり自分の中でどこか、「肉の方が良かったかな」と少し後ろめたさは常にまとわりついていた。
その気持ちを払拭するためにも、その友人が大好きなバスクチーズケーキを焼いた。乳脂肪分たっぷりの濃厚トロトロバスチー。
甘酸っぱいベリーソースも上掛けすることで、よりチーズケーキの甘さやクリーミーさをひきたてマリアージュを生んだ。
これは予想の通り、心から喜んで喫食してくれた。
そんな中、やはりその友人の配慮の力は予想を大きく上回った。
細かい話にはなるが、食事後の洗い物や大皿に盛った向付のとりわけなど、他人の家の中であるという緊張がより、繊細にさせているのかもしれないが本当に凄まじく研ぎ澄まされた配慮につながっていたように感じる。
招いているこちら側の意識としては、ゆっくりくつろいでもらってもっと甘えてくれた方がいいこともあるのだが、やはりそんな配慮をされると少し嬉しい気持ちもある。
ちなみにその友人は、腹を割って話せる仲であり普段の学生生活の中でも共にふざけ合い、助け合い、尊敬し合っている仲だ。
その友人が持つ、空気感や雰囲気は本当に心地よいもので、私の弟も今回招き入れたお家でずっと一緒にいたのだが、2人が帰ってお見送りをした後に、
「帰っちゃってなんか寂しいな、すごくいい人だね」と、お盆に故人を悼んでいるかのようなものの言い方だったのでそれは少し面白かったものの
一日という短時間にもかかわらず、弟が感じるほどの柔らかい雰囲気があったのだと思う。
親切とは自分本位の行動で、配慮とは親切に限りなく近いがもっと高等なものであると考える。
仲の良さや、その他人との知り合いの深さも大いに関連していると思うがただその関係性云々だけの話にとどまらず、配慮というものは「こういうことをしてあげないと」ではなく「うまい方へとものが運ぶために思いつく限りのことをする」と言ったものだろうか。
少し、この文章では伝わりきらない部分があるのかもしれないが、、、。
ともあれ、配慮がそこはかとなくできるその友人にはいつも、発見と驚きを貰い切磋琢磨しながらも自分磨きをしていくことが出来ているのかなと思うのである。
日本料理の授業でも、柑橘類を付け合せで盛る時には必ず種を抜いておくこと(お客さんが搾った時に種が入っていては食べづらいから)、やあまり大きな口を開けずとも食べることのできるように食材の大きさをきちんと揃えて調理すること。
などなど、たくさんあり挙げ出すとキリがないのだが本当に多くの気を配っている。
そんなところ気づいてくれるかなとも思うことはあるが、それすらも疑念を抱いていることが配慮にかけているので今の現状で、出せる限りの配慮を全て詰め込むことこそが今の自分には必要なことなのかなと。
そう考えさせられた1日であった。