リトルカズマがそう言うのだ。
はじめに
どうやら、僕は周りに比べて面倒くさい人間のようだ。
簡単に説明するなら、「ああ言えば、こう言う。」人間だろうか。
良く言えば、視点が面白い。
悪く言えば、何に対してもケチをつけたがる、だ。
別に誰かにそうと指摘されたわけでもないし、それによって何か不幸を被った訳でもないが、僕の癖である「自分を客観視する」ことを行ったときに、しばしばそのきらいを見るのだ。
「どうやら、僕は周りに比べて面倒くさい人間のようだ。」と言ってしまうと、どこか反省の色が見えてしまうかもしれないが、もちろん反省をしている反面、実はそんな自分を好いてもいる。
僕と深い関係にある人は一つも驚きはしないだろうが、その面倒くささに僕の人間性が垣間見えるのだと、自分ながらに思っているのだ。
しかし、たまに自分でもその偏った考えが嫌になることがある。
自分のことがたまらなく面倒くさくなることがある。
今回はここ最近での、その最たるものを紹介したい。
おそらく、これに共感してくれる人は存在しないだろうし、そもそも僕でさえ完全に共感することができていない。
しかし、僕の理性とは乖離した僕の胸の裡で暴れまわるリトルカズマがそう言うのだ。
「"っぽすぎる"と気持ち悪いのだ。」と。
っぽすぎる、って
「"っぽすぎる"と気持ち悪いのだ。」と言ったところで、この一言で僕の真意が伝わることが無いことは、僕のことをかなり理解しているであろう彼女に対してデモンストレーションしたことで、既に承知している。
だから、例を挙げて説明したい。
とあるYouTberさんがいる。
半年前ぐらいに、かなりハマって見ていた時期がある。
ちゃんとそのYouTuberさんの名前も書くつもりだったが、もしこれをその本人が見たら傷つく可能性があることを考えたら、そんなことはできるはずがない。
とは言っても、僕は今からそんな彼女をバカにする文章を書くわけではない。
寧ろ、好きでかなり見ていたのだということを承知した上で読んでいただけたら嬉しい。
そのYouTuberさんは可愛くて、お洒落で、落ち着いていて、それでいて飾らなくて。
「無印良品を具現化したようだ」というコメントを見て、非常に共感してしまうような女性だ。
彼女の日常を見ると、その生活に憧れるか、さらに自分が嫌になってしまうかのどちらかが予想されるが、是非見てみてほしい。
それでは、そんな魅力的に見える女性の何が僕は気になるのか。
どこが、っぽすぎるのか。
約一か月間ほどハマってみていた僕の見解では、彼女を一言で表すと「ナチュラル」だ。
できる限りメイクはしないし、無添加のものを好み、普段の服装は無地のアースカラー、髪は常に黒で、ちゃんと早寝早起きをして生活習慣は100点。
この内には、動画で確認済みのものもあるし、僕の憶測のものも含まれている。
そして、ここがポイントになってくる。
彼女の人間性はあまりに統一されすぎているのだ。
彼女はよくモーニングルーティンの動画を上げるのだが、どの行動の予想できる(っぽすぎる)もので、何も驚かないのだ。
ナチュラルメイクをすることも、無添加の食品を食べ、無添加のシャンプーを使うことも、ユニクロと無印良品の服ばかりを着ていることも。
どれも、あまりにナチュラルから離れてなさ過ぎて、寧ろ逆にそんな彼女がアンナチュラル見えてしまうのだ。
おそらく、その統一されたナチュラルは、彼女が無理なくしていることだろうし、彼女の良さであるはずなのに、僕はなぜかその統一感に違和感を持ってしまうのだ。
それが、僕の言う「っぽすぎる」だ。
日本のドラマも”っぽすぎる”?
もう一つの例として、日本のドラマも挙げたい。
僕は日本のドラマが苦手だ。
周りのみんなが学校で話題のドラマについて盛り上がっている中になかなか入ることができなかったし、正直入る気にもならなかった。
それでは、日本のドラマの何が嫌なのか。
俳優さんや女優さんの演技があまりに上手すぎるのだ。
愛する恋人が病に臥したシーンでは、あまりにも綺麗な涙を流すし、
自分の罪を最後の最後で暴かれた犯人は、あまりにも絶望を分かりやすく表現した崩れ落ち方をするし、
またその真実を暴いた刑事さんは、あまりにもキリっとした目で堂々と立っている。
どれも、俳優さんと女優さんの素晴らしく上手い演技のおかげで、そのドラマで多くの視聴者が涙を流してしまう程の素晴らしい作品が完成しているのだが、
僕はそのドラマの中での上手い演技を自分の日常に落とし込むことで、ナチュラルなものからアンナチュラルなものへと変換し、気持ち悪さ、つまり違和感を持ってしまうのである。
だから、そんな僕は『勇者ヨシヒコ』のような現実と架空が混合されたドラマか、言語の違いにより細かな抑揚表現などを完全に理解することのできない海外ドラマくらいしか、何の違和感も感じずに気持ちよく鑑賞することができないのだ。
自分への反射
僕の面倒くささは、ここでは止まらない。
まだ、続きがあるのだ。
それは僕が統一感に拘るということだ。
大いに僕を詰っていただきたい。
「矛盾しているじゃないか」と。
しかし、これも先ほど言った通り、僕の胸の裡にいるリトルカズマがそう言うのだ。
レトロな雰囲気を全面に出している人が、レコードプレーヤーで音楽を聴いていれば、「あー、っぽいなー」となるし、レコードプレーヤーではなく普通にスマホのサブスクリプションサービスなどで聴いていれば、「いや、レトロなものが好きなんじゃないんかい」となる。
その人の中での統一感はあった方が良いと思うし、無い方が良いとも思う。
こんな風に、僕は二項対立の狭間に自ら勝手に囚われているのだ。
まあ、つまり、「ああ言えば、こう言う。」ってことなんだろう。
冷静に考えれば、どの意見も筋が通ってなくて訳の分からないものであるのに、その場面に遭遇した僕は、無意識のうちにまず最初にその感覚を優先させてしまうのだ。
そう、つまり、リトルカズマがそう言っているのだ。
矛盾を抱える
別にこのnoteで何か伝えたいことがあるわけでもない。
「どう? 僕、変じゃないですか?」って言いたかったから、書いたまでだ。
しかし、これを書いている最中に少し「ひょっとしたら?」と思ったことがあるから、最後にそれを書いて終わりにしたい。
それは、人間は矛盾を抱えるもんなのではないか、ということだ。
僕は、あまりにもナチュラルすぎるYouTuberさんを見ると、若干の違和感を持ってしまう。
しかし、その後に大いなる矛盾を抱える自分自身を眺めてみると、それを人間らしく感じてしまう。
そこから考えると、ひょっとしたらそのYouTuberさんの中には矛盾が無いように見えてしまうからこそ、あまりにも完成されすぎているように見えるからこそ、違和感を持ってしまうのかもしれない。
つまり、「完璧でありたい(完成形を追い求める)」リアルカズマに対して、人間はどこまで行っても不完全なものであるというアンチテーゼをリトルカズマが必死に訴えかけているのかもしれない。
とは言ったものの、このことについてはただの思い付きでしかないから、僕自身もよく分かっていない。
ああ、つまりは、これすらもリトルカズマがそう言っているのだろうね。
こうやって、僕は絶え間なくリトルカズマと闘いながら、自分の矛盾を抱えながら、日々を過ごしていく。
そんな日々も悪くない。
さいごに
これを読んで、「なんこいつ、面倒くさ!!」となって、僕と関わるのをやめようとした方へ。
まだ早まってはいけませんよ!!
最後に僕の言い訳を聞いてください。
リトルカズマは真の僕であるようで、真の僕ではないと思っています。
感情や意欲を司る大脳辺縁系を握るのはリトルカズマかもしれませんが、言語能力や分析思考といった理性を司る大脳新皮質はリアルカズマがガッチリと握っています。
つまり、先ほど「絶え間なくリトルカズマと闘う」と表現したように、僕は常にリトルカズマを説得、またリトルカズマと議論しているのです。
そして、余程のこと(怒ったときとか?)がない限りリトルカズマの意見が採用されることはありません。
ということは、皆さんはもうお分かりでしょう。
これから皆さんが関わっていくのはリトルカズマではなくリアルカズマなのです。
ここの違いはとても大きいですよ。たぶん。
なので、みなさんこれからも仲良くしてください。
これが、僕の言い訳でした。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
それでは、また来週^ ^
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