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地方創生という甘い蜜に誘われて

はじめに

晴れた日の昼下がり、家の近くにある小学校から子供たちの遊ぶ声が聞こえてくるようになりました。日常が戻り始めていることは喜ばしいことですね。
21年間この街で過ごしてきた僕はこの声が聞こえた方が案外集中できたりもします。

さて、そんな心地よい喧騒の中でこのnoteを書いているわけですが、今回もまた難しいテーマに挑もうとしている自分がいます。

数日前にゼミ内で「地方創生について議論しようの会」を開催しました。
地方創生、地域活性化、まちづくり、言い方はさまざまですが、これらに興味のある学生を集めて「地方創生って結局何だろう」ということに関して議論しました。
今回のnoteではその会の議事録を兼ねながら、地方創生の実体を紐解こうとした僕たちの努力の結果を報告していきたいと思います。

この内容はあくまでも学生の議論から生まれた「地方創生とは」の一つの結論なので、これが正解ではないということをここで断っておきます。

また、このnoteでは地方創生を簡単に説明することなどは目的としておらず、寧ろより難しく考えるようになってしまうかもしれません。
しかし、それはより地方創生や地域と改めて向き合う良いきっかけとなるかもしれませんので、最後まで読んで下されば幸いです。


本会の開催に至った経緯

さて、まず最初に、なぜマーケティングを専攻するゼミで地方創生についての議論が行われたのか。
そのきっかけとして、ゼミが課外プロジェクトとして毎年行っている「書く力をきたえるプログラム(以下:書くP)」が深く関わっています。
このプロジェクトについて詳しく説明しようとすると1記事分ぐらいの量が必要になってくるため、ここでは省略させていただきます。

昨年の夏に山口県美祢市にある美祢青嶺高校で行われた書くPでの主なテーマが地方創生でした。それでゼミ生の多くが地方創生というキーワードに興味を持ち、卒業論文ではそれに絡めた内容を書きたいと思う学生が増えたわけですね。
そして僕もそのうちの1人で、地方創生のことを考えるにつれて頭の中がグチャグチャになってしまったため、ゼミ生に助けを請い今回の「地方創生について議論しようの会」が開催されることになったのです。
本会の名付け親である僕のネーミングセンスに関して一切の言を封じます。
破らば、即斬首です。



地方創生と地域活性化の違い

まず僕たちが議論したのは地方創生と地域活性化の違いについて。

地方創生とは、国内の各地域・地方が、それぞれの特徴を活かした自律的で持続的な社会をかたちづくること。
魅力あふれる地方のあり方を築くこと。
地域おこしとは、地域(地方)が、経済力や人々の意欲を(再び)向上させたり、人口を維持したり(再び)増やしたりするために行う諸活動のことである。
地域活性化、地域振興、地域づくりとも呼ばれる。

辞書では以上のように書かれていました。

地方創生はその地域の魅力を最大限活かし、その地域に合った在り方を再構築することがゴール。
地域活性化(地域おこし)は、その地域にお金を落とし、雇用を増やし人口増加させることが基本的にはゴール。
僕たちはこのゴールの違いに違和感を覚え、地方創生には暖かみがあって地域活性化にはそれがないと捉えました。

-お金が落ちることで本当の意味で地域は活気づくのでしょうか。
-人口が増えることで本当の意味で地域は元気になるのでしょうか。

この問いに対して多くの人が「はい」と答えるかもしれません。
しかし、人口も多くて雇用も充分にあり、都心からも近い僕が住む街では暖かみはほとんど感じられません。
地域に活力があるとはお世辞にも言えません。

人はたくさんいる。でも彼らのほとんどはその街をただ生活する場所としか考えていない。
寝て、起きて、ご飯を食べて、仕事へ出掛ける。これの繰り返し。この一連の流れの中で人と人との心の通った会話は一つもない。
もちろんどこかで人と人との繋がりは存在しているはずですが、21年間この街で暮らしてきた僕から見るとその繋がり、つまり暖かみが失われていっていることはハッキリとわかります。
ゼミ内に岡山の地方出身の子がいるのですが、その子からご近所さんとのエピソードやそこでの習慣を聞くと、都会出身の僕はその暖かみのある街に憧れてしまうことが多々あります。
バイト先の人から「辻君って赤ちゃんやペットを見て可愛いと思うんだ!」と驚かれるぐらいに冷酷な人間として通っている僕でさえ、それぞれの街に宿る暖かみは無くてはならないものだと考えています。

こうして僕たちは極端に言えば地方創生を「良」、地域活性化を「悪」として評価しました。



地域は活性することを求めているのか

ここまで話したところで、僕は本会で最も議論したかった疑問を投げかけました。
「近年、地方創生や地域活性化を目指す企業や自治体、その他の団体が数多く存在しているが、それは住民の意思を無視した彼らのエゴではないか」と。

決して彼らの夢や情熱を批判したいのではなく、「住民の想いと彼らの想いの間にギャップが生じているのではないか」と僕は言いたいのです。

その地域に住む人々は本当に地域が活気づくことを求めているのか。
お盆やお正月にゆっくりするために里帰りして帰ってきた人たちは、観光地化して地域の見た目はすっかり変わり、観光客や見知らぬ業者で溢れかえっている地元を見てうんざりしてしまうのではないか。
自然に囲まれた静かなところで余生を過ごそうと思いやってきた夫婦の夢が砕け散ってしまうのではないか。

このように地域が活気づくことを求めているのは勝手に奮起してしまっている企業や自治体だけで、彼らの独りよがりになってしまっているんじゃないか。

このような疑惑が僕の頭の中を支配してしまい、地方創生が決して良くないものなのではないかと疑い始めたことが本会の開催に至った最大の要因です。

地方創生に自分も携わりたいと考えている参加者たちもこの疑念に共感してくれ、皆で共に頭を抱えました。



地方創生に見出す真の価値

そこで僕はふと、あることを思い出しました。

それは上で紹介した書くPです。このプロジェクトと地方創生は本質的な部分で通ずるものがあるのではないかと、突然頭に浮かんだのです。

書くPはゼミの担当教員である先生がプロジェクトの話をどこかから持ってきてその都度、有志のメンバーを募ります。
プロジェクトの話を持ってくると言っても、そのプロジェクトについて決まっているのは大まかな目的や意義だけで、「中高生に何を伝えるか」や「どんなテーマを扱うか」などの大半部分は数か月間をかけて学生が主体となって創っていきます。
その過程の中で学生の力だけでは何ともならないような壁にぶち当たった時だけ先生がアドバイスを与えてくれ、そこからまた学生で考えを巡らせる。簡単に説明すると、このような流れでプロジェクトは進んでいきます。

それでは、このプロジェクトにおける価値とは何でしょうか。
それはもちろん「美祢青嶺高校(クライアント)が求めるものを実現させること」であることは間違いありません。
しかし、企画側の学生にとってもさまざまな価値を孕んでいます。

-問題発見力や課題設定力を鍛えること
-自分と向き合い自分にさらなるイノベーションを起こすこと
-大学で学ぶマーケティングや経営を自らの体験を通してより深く学ぶこと
-切磋琢磨し合える仲間を見つけること
-大学生活の一つの思い出を作ること

一人ひとりの学生によってそのプロジェクトにどのような価値を見出すかはさまざまなので、これ以外の価値もまだまだあるると思います。
よって書くPは学生に多大な影響を与えるまたとない機会であると言えますね。

つまりこの場合、
クライアントが求めているのは「結果」※
サプライヤーが求めているのは「過程」というように言い換えることができます。

※そもそも書くPは「教えることを通して学ぶ」というスタンスを予てからとっており、美祢青嶺高校さん側もそれに賛同した上で本プログラムが成り立っているため、この言い方は適してはいませんが分かりやすくするためにこのように表現しています。

ここで一つ注意しておきたいのは、このプロジェクトは学生が主体となって創り上げていくからこそ、その過程に価値が生まれるのです。
先生主体で、学生が補佐に回るようなプロジェクトでは学生にとっての学びは激減してしまいます。

これを踏まえた上で、このロジックを地方創生に落とし込んで考えてみます。

地方創生とは、安倍政権が発案したものであるためクライアントは国と言えるでしょう。そしてそれを要請されて実行に移すのは地方自治体です。さらに企業と連携して行うこともあるため、ここでは地方自治体と企業がサプライヤーとなります。
それでは住民はクライアントとサプライヤーのどちらになるのでしょうか。

国は住民のために地方創生を掲げていると考えるならば、クライアント側に入ると考えられます。
しかし、地方自治体だけでは地方創生を目指すことは難しいため、住民と一体になって地域を盛り上げていこうとするところを想像すると住民はサプライヤー側に入るとも考えられます。

それでは、サプライヤーである地方自治体と住民が追い求めるべきは経済力や人口増加、雇用の創出などの結果でしょうか。
もちろんこれらの結果がついてこない限りその活動を続けることはできませんから、結果を追求することは大切です。
しかし、先ほど例に挙げた書くPの大学生のように、サプライヤー側は結果だけでなく過程も大切にすべきです。
そしてクライアントである国や地方自治体(住民に協力を仰ぐ場合はクライアントにもなり得る)は先頭をひた走るのではなく、書くPのときの先生のように住民たちの活動を支えてあげる役割をするべきなのではないか。
地方創生の主語は地方自治体や企業ではなく、住民になるべきではないか。

そうすることで、たとえ時間をかけて創ってきたものが失敗に終わってしまったとしても、これまで話したことが無かったご近所さんとの繋がりができたり、ミーティングの後にみんなで同じ釜の飯を食い、それまでにはなかった世代間の交流が生まれたりという風に、結果ではなく過程に価値を見出すことで、結果としてその地域は活性化するのではないか。
そしてそれが最終的に地域の暖かみへと変化していくのではないか。

このように僕たちのプロジェクトの実体験を通して、地方創生に僕らなりの新たな価値を見出しました。

実際に僕が小学生の時にあった地域のソフトボール大会はこのようなものでした。全部負けたとしても休みの日に集まって皆で練習したことや、練習の後に誰かの家でソーメンを食べたこと、大会のあとは大人も子供もみんな集まってBBQをして花火をして、それらの過程が楽しくて楽しくて、今になって考えてみればあのときは地域が一体になっていたなと感慨深くなります。
現在はソフトボール大会は行われているようですが、地域が連携して動いているかどうかなんて全く知らない状況です。
このままでは、僕たちが大人になるころにはそのような大会もなくなっているかもしれません。



地方創生からまちづくりへ

ここまでの一連の件が終わったところに先生も途中参加してくださり、それまでの議論の内容を一度まとめて説明しました。

すると、田村先生から以下のような助言が。

あなたたちが言っていることは正しい。しかし、そもそも地方創生は政府が言い出したものであり、約1,700もある地方自治体はやらされている状況にある。そしてそれは行政主体では今後も変わることは決してないため、日本国民がこの現在の状況に危機感を持つしかない。つまり地方創生から住民起点である「まちづくり」となるべきなのだ。
しかし、それも残念ながら望みは薄い。なぜなら、日本人は住民力が弱いからだ。日本人の特性である同調圧力や目立ちたくない精神などが邪魔をしてしまう。実際に今、世界中では人種差別に反対する一大ムーブメントが起こっているが、日本ではそのような活動はどこにも見えないでしょう。

このように僕たちが立てた「住民が主体となってまちづくりをし、結果だけでなく過程も大切にする」という仮説は非常にレベルの高い理想であったことがわかったわけです。

まあそれは残念ではありましたが、だからと言って実現不可能なはずはありませんし、僕たちは必死に捻り出した仮説ではなく、今回の議論を重ねたことによって本や論文から得る学びよりも深い学びを得ることができたのです。つまり結果ではなく過程から価値を得たということですね。
僕たちの考えるまちづくりの在り方と一緒じゃないですか。

すごく纏まりが良くなったため、このまま気持ちよく終わりたいところですが、もう一つ議論していた大切なことがあるためそれを最後に少しだけ。



人 vs. 暖かみ

本章のタイトルを見てもらえば分かる通り、もう一つの議論の重要なテーマは暖かみです。

本会に参加してくれた岡山出身の子。彼女は小さい頃から自然に囲まれ、同じ地域に住む人たちとの関りを大切にしながら成長してきました。彼女の岡山でのエピソードからは僕の住む街では考えられないような暖かみを感じることができます。
例えばお正月休みなどで実家に帰った時に、ご近所さんから「あら、〇〇ちゃん帰ってきたのー!可愛くなったねえ」とか言われたり。
僕の住むまちではそもそも顔見知りとバッタリ会うことなんてほとんどありませんから。

それではそんな彼女の故郷が一念発起し、まちづくりに力を入れた場合を考えてみます。そしてそのまちづくりが成功し、数万人の人口から数十万人の人口を抱えるほど大きくなり、それに比例して仕事も増え、オフィス街のようなものができるかもしれませんし、その周辺地域の地価は高騰し郊外に続々と家が建てられ、緑はなくなり、かつての地域の跡形は残っていない、これまで是とされてきた都市化の道を歩んだとしたとき、あなたはどう思いますか。

あくまで僕個人の意見ですが、こんなの良いはずがありません。それまでにあった暖かみが失われていくのは火を見るよりも明らかですから。
そこで、僕たちは極端ではありますが、この暖かみを大切にするのであれば人口は増やすべきではないのではないかと考えました。
つまり「人口増加」と「暖かみ」を二律背反で考えることにしました。

これを先生に説明すると、また面白い助言が。

それを言ってしまうと、人を増やすべきではないとしか考えられなくなるから、今はそこまで考えなくていいよ。
でも、例えば福岡市で考えてみると面白いかもね。福岡市の人口はずっと増え続けているが、それは他の九州の県から人を吸い取っている、言わば吸血鬼みたいなものだ。今はその吸い上げる一方向の矢印しかないが、それが「福岡市からやってきた人たちはリーダーシップを発揮して、地域に密着してまちづくりをしてくれる」というように人材を輩出する矢印も加えた双方向の関係性になると、新しいまちの在り方としてすごく面白いかもね。

これを聞いた時、僕はすごくワクワクしました。一体いつになったらこんな新しいまちの在り方が実現するのかは分かりませんが、このような夢を追いかけてみるのも良いかもしれません。

ということは俺は福岡市長にならないといけないのか。

いや、でもこれからは行政主体ではなく住民主体でまちづくりをしていくべきだからそれはダメか。

と、こんな感じで自分の頭と会話しながら、これからも興味のあるテーマについて深めていくのでしょう。



おわりに

この「地方創生について議論しようの会」は僕の「分からないから誰かに聞きたい」という我儘に多くの人を巻き込む形になってしまったわけですが、とても深い学びを得られる良い機会になりました。

これを読んでくれた皆様にも学びはあったのでしょうか。もしそうであればとてもうれしい限りです。

そして本会がこのような形で良いものとなったのは、僕の我儘に付き合ってくれたゼミ生と𠮟咤激励してくださった先生のおかげです。

参加してくれたゼミ生にも同等かそれ以上の学びがあったことを願うばかりです。加えて、感謝の気持ちを伝えます。


と、まあこんな風に本の終わり方っぽく締めようと思います。やってみたかったので勝手にさせていただきました。
最後まで読んで下さいましてありがとうございました。

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