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スマホを使えない若者たち。みなさんは、身体拡張してますか?スマホに使われる若者たち。

あと数日で、森の保育者養成講座。
これから、始めよう。今やっている人たちに何を感じてもらえるのか。
僕のわずかな経験値から伝えられることはそう多くはない。
イコロの森、動物たちから、何を感じとってもらうか、感じ取れるような環境を生み出せるのか、それが最大の役割だと思っている。

唐突ではありますが、最近の関心ごと、思考の軸にいるのは「身体拡張性」
みなさんは、身体拡張してますか?と融合性。

僕のここ5年くらい目標は「ななとの融合による馬人間になることです」
いきなり、何を言っているのかわからないけど、あと5年もすれば、僕も自分のことがで理解できるような言語力が身につくと思います。

僕の悩みの一つは、道具をうまく使えないこととつくれないことです。
道具の役割には、「身体拡張性」「所有欲」「利便性」「・・・」など、さまざま。
今、北海道沼田町で「馬とつくるおにぎり田んぼプロジェクト」を思案しています。
そのやり方は、ごくシンプルで、馬力で田を耕し、人の手で稲を植えます(お米の作り方がわからなすぎて、稲を植えるのか、苗を植えるのか、全く間違いなのかわかりません、すいません。勉強します。)
そこで、課題になるのは、米の作り方を知らないことでも、専門家でないことでも、土地がないことでも、お金がないことでもありません。もちろん馬はいます!!(ドヤ)
道具がないことです。現代超利便大量生産大量消費社会の敗者となった、農耕具たちは、農家の納屋で朽ち果てるか、郷土博物館に収容されるのみです。(農工具の歴史という本でもみれます)
ここから、時代を約100年前くらいに戻してみましょう。

北海道開拓のころ、コンビニは愚かホームセンターもスパーも商店もありません。ほんまかいな。彼らは、山からギコギコ切り出した木を使い、馬具や農耕具を作るわけです。その頃、江戸幕府が倒れた後のニホン、トウキョウでは・・・云々

的な感じで、当時にも別にそこらへんで買えたわけではないわけですね。
ただ、彼らはそれを作る知恵と知識を持っていた。
そんなの現代人ならすぐに作れるわ!と、突っ込まれるかもしれないけど、この形にしてくださいのオーダーはできても、その場にあるもので、その場にあった最大のクオリティを発揮するクリエイティビティは持ち合わせていない。もっと言うと、現代社会にそんなものは意味がないと言うのは、ごもっともな意見。

そこで、僕は農耕具や馬具の一つもつくれない自分なんて・・・
と、自己肯定感が爆下がりするわけですね。

翻って、現代最強クリエイティブ身体拡張機械のiphone(スマホ)
を持っているけど、その機能を最大限発揮して、パーソナライズして、自分のライフスタイルや環境に合わせたデバイスへと変換しているともいいがたい。

僕の超絶空想仮設によると、北海道開拓をクリエティブに行なっていた彼らに、スマホを渡したら、その機能や使い方、仕組みを理解すれば、いとも簡単に使いこなすとも思う。
ただ、現代のあまあま義務無思考規律ヒトにスマホを持たせようが、馬を持たせようが、その価値を最大限に引き出すことはない。

それでも、時代の波は訪れる。
^^^^^メタ^^^
^^メタ^^^^^バ
^^^^^^^メタ^
^バース^^^^^^
^^メタバース^^^

メタバース?

「メタ(meta)」超越した「ユニバース(universe)」宇宙空間
拡張現実、仮想空間、、、

おそらく、今生きる多くの人が体験したことのない、時代の変革期(らしい)
そのレベルは、スマホができた時か、地球ができた時か、ねりけしくんができた時か、計り知れない。

そんな中で、無意識無思考で生きていると、我々は時代の再生産を行うに過ぎない、もしくは淘汰される人類になってしまう。
そう、もしかしたら、かつて人類が海から陸に上がったように、地球から出て、火星に向かうように、二次元から三次元に飛び立つ瞬間なのかもしれない。(結構、それはどうでもいんだけど)
その中で、必死に泳ぎもがくseisiでありたいと思う。

動物と人類の間の一つに意識性があるらしい。
動物は、ほぼ無意識で生きている。猿も犬も鶏も。意識の中に生きているのは人間くらいなもんらしい。彼らは、その分直感を持っている。
我々人類は、直感を捨て、意識下の中に生きるようになった。
でも、現代は無意識無直感で生きることが多い。

・・・


ここら辺の話を、もう少しまとめたいな。おしまい。

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