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KISEKIが終わって

沖仁さんとの南青山Baroomでのライブから間髪入れずKAZ TAP STUDIO16周年のKISEKI(軌跡と奇跡)公演『デュークエリントンへの手紙』のリハーサルに突入しようやく無事に本番を終える事ができた

沖仁さんとパーカッション服部さんとの3人のライブでは、1stから全力でやって2ndのライブでは頭が真っ白になって途中からふわふわとグルーヴに浮いている感じで、自分的には「しっかりしろ」と言い聞かせながらも流れに身を任せるように踊っていた

途中、頭が真っ白だったと沖さんに言うと、「すごくフレッシュでよかった」と言ってくれて少し安心した。その後来ていたお客さんとお話しする機会があり、そんな状況を笑いながら説明していたら同じような気持ちでシンクロして観ていたような感想を聞いて興味深かった
アンコールでやった I will be thereはきもちよかったなあ
沖さん、服部さんありがとう!

いま、エリントンをテーマにした公演も終わり、映像なんかを観てまた色々反芻して、あの時のあの判断は違ったんじゃないかとか様々なことを想って反省をしている

創作の期間に入ると本番まで自分の様々な感情に直面しているような感覚がある。今まで封印しているような気持ちにも向き合い、自分自身を表現するということは、ややしんどい作業である。英語では『Vulnerable』という表現がある。自分の弱い部分も曝け出し共有するという意味合いもあるけれど、日本語に当てはまる言葉があまりない気がする。
例えば仲の良い友人が自分に言いにくい自身の感情を打ち明けてくれるような時に使われる表現だ。それは「弱さ」というよりも「正直」な感情が現れているという状態のことだと僕は思う

ニューヨークの友人のタップダンサーと話している時に、よくこの言葉が出てきて、表現するというのは繊細で難しいことだという話をする

そこには正解も不正解もなく、まだ見ぬ感情の世界に突入して行く
否定的な言葉を受けるかもしれないけれど、それをやり抜く必要がある

暗闇を模索してかすかな光に向かって突き進み
辿り着くこともあれば
そうでない時だってある
それをずっと悩みながらも楽しみ続けていくことに
表現の醍醐味があるかもしれないと思う

表現する者がいて
それを見る人もそこに自分自身を見ているのかもしれないとある人が言っていた
結局はみんなが自分に向き合えたとき
自分に拍手をしているのかもしれないとも思う

まだまだこれから
模索しながらも
誰かと共有できる光があれば
それがとっても幸せなことだ

ここまで一緒に頑張ってくれる仲間たちには
本当に感謝するばかり
感謝をずっとわすれずに一歩一歩前に進もう

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