相手の機嫌も自由。私の機嫌も自由。相手の機嫌も尊重。私の機嫌も尊重。相手の機嫌で、自分の機嫌を変えることはない。

CHIKOTOさんのブログを読ませていただき、日々実践を

実は現実とは
全て、自分の想いが反映され表面化しているだけで
周りの人は一切関係無いのです。

お気楽不食者CHIKOTO
不食(少食)者と家族と会食
https://note.com/fushoku_ai369/n/n0086d8af327d

夫婦でうまく対話が進まない日がありました。
どっちが悪い、どっちが良い。
明確に言葉にはしていないし、されてはいないけれど、煮え切らない。
それは他人の責任にしている結果に他ならないのでしょう。

海辺を散歩しながら、「やっぱり、私の思いが表面化されているだけ」と気づき、妻に謝るのではなく、私として「こうありたい」「こういうご機嫌な自分になりたい」と告げました。すると、妻としても大きな氷のかたまりが溶けるようにわだかまりが消えていったと教えてくれました。

100%自分が正しいと思っていることは、自分を苦しめている。そう思います。
しかしまあ、自分が常識と思っていることを、「そうではない」と悟るのは容易ではありませんね。思い込み、怖い(笑)

THE BLUE HEARTSの歌である、「目で見たことや 聴いたこと 今まで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう」なんだかそんな気持ちです。

自分が正しいと思い込んでいることが、自分を幸せにしているなら問題はないのですが、まあ、だいたい、首を絞めているものです(笑)

私の場合は、相手を理解するためにと話を聴き、それを繋げて、一つの言葉にしないと、理解できないし、理解出来ていないという考え方の癖がありました。

妻は話しながら、考えていき、その言葉たちは、理論的ではなく、その場その場の思いつきで話されて、それが特にまとまる必要もなく、まとめようともしていないし、あなたを責めるものでもないとのこと。あの時怒ってた?と聴かれて「怒ってなかったよ」と答えるのも違うらしい。←これが難しかった。これらがどうにも私にはわからなかったんです。

理解ができない・・・どうしよう・・・私は焦っていたのかも知れません。しかし、どうやらそれも、違うらしい。
理解はしなくていい。ただ話を聴くということ「だけ」で、いいらしい(笑)

理解とは、自分の価値観と照らし合わせてどうのこうの、相手の気持ちを呑み込むこともないらしい。相手の領域までズカズカはいっているようなものだよね。理解とはそういうことではないんだ。

あなたのご機嫌で、私のご機嫌は振動しませんよと伝えることが、相手の尊重に繋がったのだ。不思議だね〜〜〜。

これが、「どんなあなたでもOK。愛してる」というメッセージになるのだ。無理に理解なんかしなくていい。もうそれこそが、自分本位。なのかもしれないね。

自分の常識を思うと、わああと思い出すのが、母の姿。母から受け継いでいるんだなあ・・・そして、それに自分は苦しんで来たのに、それを忘れて妻にしてしまっていることにも気がつく_| ̄|○

あるとき、母が私の命の恩人について「理解できない」と言ったことがあった。おいおい(笑)あんたの息子を助けてくれた人を理解できないなんて、どないなっとんねんと突っ込んだが、何度も何度も「理解できない」と言われた。挙げ句の果てに私の仕事にまで「理解できない」と言われた。おいおい。そして私は思った「理解なんかしなくていいから、邪魔せんで(笑)」あなたに理解されなくていい。ただ、私の機嫌を敢えて邪魔しないで。ほっといて。そういうふうに伝えたことがある。

おいおい。
おれは、母そっくりやないけ(笑)
そう気づいた。

すべてが自由なのに。
なぜ他人の自由にまで、理解するぞと石頭で踏み込んでいくのか。そこは立ち入り禁止ですよ、おじさん(笑)どうどうどう・・・と、自分の心をなだめるのでした。

相手の機嫌も自由。私の機嫌も自由。相手の機嫌も尊重。私の機嫌も尊重。相手の機嫌で、自分の機嫌を変えることはない。

それが私が得た、教訓です。
気持ちが晴れました。
私は、自分の常識を一生懸命全うすることを頑張っていた。でも、それはどうやら違うらしい。そっと手放して、軽くなった気持ちをいま、愉しんでいます。


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