超小食にしても、断食にしても、こういう行っぽいことに取り組むには、家庭の同意が必要(^^)
今年、次女が生まれ、初めて取り組んだ備蓄。その一環として、秋ジャガさんやサツマイモさんを育てておりました。
そこで気がついたのは、生命の尊さと、限りない己の欲望(笑)。
いくら備蓄しようが、自分自身の欲望に目を向けなければ、欲望は際限なく、不安感を生み出しつづけることでした。一体どれだけ備蓄をすれば心が安まるのだろう・・・。迷路の中にいました。
そんな中で出会ったのが「不食」で、自分という人間が食べ物に依存しないことがどれだけ自由であるかを学びました。
それから1ヶ月。思いがけず私は10kg痩せました。一方で、自分のたましいと肉体を使い、信じられないような濃い学びをさせていただきました。
つい先日、妻と話し合い、不食の取り組みの一つであった「超小食」を「少食」に変更しました。「間食」も復活。妻との話合いの場には、ちょっとした少量のおやつが並ぶようになりました。スイマグを取り寄せはしましたが、2回服用したきり飲まないようになりました。超小食は終わりましたが、不食は終わりません。私は自由です(^^)
CHIKOTOさんのブログを読み、瞑想が大切であることをお教えいただきました。断食よりも(^^)
私が家族の気持ちを踏みにじってまで、超小食(断食とはまったく違いますが)に取り組み、げっそりと痩せていく姿をもって、「幸福」といえるのか。「瞑想」をしてみると、答えはNO。「神がいかようにもしてやる」とのことで、一旦超小食はストップしました。
幸せと超小食。本末転倒にならないか。常に自分の胸に手を当て行動できたことを嬉しく思います。
超小食のいいところは、なんと言っても、いただくお野菜の命に真剣に手を合わせることができること。美味しいと感謝も深くなります。感謝で自分が満たされれば、満腹中枢を刺激しなくても、満福です。(今考えましたw)おいしいね。おいしいね。と食事中何度もいっていると、娘達が私のモノマネをしますw
「おとーたん、おいしいね」
「おとたん、おいしいね」
2才にして、一皿一皿に、手を合わせ、神様に祈り、感謝を言葉にし、いただきますと言えるのですから、すごい御方だなあと思います。イヤイヤ期といっても、神様に対してイヤイヤしないのは大発見でした。学ばない親に対して、イヤイヤしているのだとさえ感じます。どこまでも謙虚に学ばせていただきます。
この我が家に根付いた文化は、私が超小食を止めたところで続いており、一度経験、体験することの大切さを改めて思わされました。不食の良いところは、持続性があるところ。息を止めて、水の中に顔を沈めるような断食との違いですね。常に呼吸をし、長期的に自分を深くみつめていく不食は私の大のお気に入りです。
とはいえ、超小食によって獲得した、眠気への勝利は、やはりことごとく負けるようになりました(笑)でも、それで何が悪いのか?というと、特に悪くも無いわけです。寝たいときに寝れば良いじゃんとも思います。
妻曰く「私が、あなたが寝るときに、小言を言わなければよかった」と反省されていました。いやいやいやwww言われた記憶ないんやけど(笑)むしろ毛布掛けてくれてたやん!と言うわけですが、妻の意識としては問題にしており、そこでエネルギーを消費していたということでしょう。
「あなたが寝てくれると嬉しい」と妻は妻で何か私に対しての関わり方の新しいものを掴んでくださり、また日々刻々とかわる感情を共々に共有し分かち合う日々です。
超小食にしても、断食にしても、こういう行っぽいことに取り組むには、家庭の同意をとる必要があるなあと思います。家族をぽつんとひとりぼっちにしてしまうことも、やはりあるわけですから。「お父さんどこいっちゃうの?」と不安にさせてしまっては、本末転倒ですからね💦幸せを願い幸せを手放すことがあってはもったいない。よく話合い、今できることに喜びを感じながら、家族とともにありたいと思います。
たましいの成長を感じながら、幸福を感じながら、今日も大切な一日を大切にさせていただきます(^^)
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