期待することの疲労感
ゲームオブスローンズを視聴して、とても面白く感じた。
近頃、ゲームオブスローンズを見た。
大陸の王座をめぐる群像戦記は、様々な思惑が交じりあい、そこから多くの期待や予感が生まれ、視聴を止めるタイミングを失う出来だった。
視聴開始時こそ登場人物の多さに、関係性への理解、名前と人物を一致させることに苦労したが、物語知識が頭に入ると複雑にからみあう人間模様が大変面白かった。
西洋ファンタジー戦記ではあるが、これは人間ドラマであり、権力と家族のマリアージュ的愛憎劇。アクションよりも、人物描写が圧倒的に多く、そこが面白かった。
並行していく物語がどの段階で相まみえ、衝突するのかとわくわくしたもの。
こんなに面白く、視聴を止められなかったのは、プリズンブレイク以来だろうか。
海外連続ドラマの、ドラマを作る力にあらためて感心した。
ドラマ疲れをおぼえる
面白くて止められない。
しかしシーズン1の連続視聴を終えたあたりで疲労をおぼえる。
連続視聴による体力的疲労感ではなく、ドラマへの精神的ストレスによる疲労が蓄積していたのだ。
次を見たいと思わせる力、予感させ期待させる力、いわゆるクリフハンガー的ドラマ能力が非常に、強力に、暴力的なほど優れた作品。
ゆえに強制的に期待させられ、期待させられ続けることに精神が疲労した。
このドラマ、期待させることに長けるが満足させてくれることが少ない。期待させたあと、さらに期待させ、その期待を煽り、煽った期待をいよいよ燃え上がらせ、期待を裏切り、裏切った期待を蘇らせて再び煽っていく。期待の炎に薪をくべる内容が延々続き、期待をかなえて満足させることが十話近くあるシーズンを通してほぼなかった。
「おしん」でも見ているかと錯覚するぐらい、感情移入している人物がつらい目にあい、同情とリベンジへの欲を焚きつけられる。
この期待させられている時間の長さに疲労を感じ、恐らくドラマの視聴を続けても「期待」は得られても「満足」は得られないと悟り、ドラマから離れた。
満足させたら終わり
連続テレビドラマであるから、次回への視聴意欲を持続させることが重要。
結果、予感させ期待させる技術がのび、視聴者の期待をあおり続ける構造になるのも頷ける。
しかし、一体いつ、視聴者は満足出来るのだろうか? 片時も休む間なく期待を煽られつづけた精神は、いつ到達への喜びを享受し、満足感を得られるのだろう?
そんな時はこない。
連続ドラマにとって満足は敵であり、客を満足させてしまったら終わりなのだ。
満足させることが彼らの目的ではなく、期待させ、次を望ませ、再び視聴(購入)させることこそが目的だ。
だから満足を期待し待っていても、ほとんどの場合、得られるのは旬を過ぎて打ち切りになった絞りカス。
連続ドラマ制作者に、読者を満足させるつもりはない。満足させてはならないのだ。彼等の目的は、餓えさせ、求めさせることにある。
面白くて満足感のない物語体験
期待させる技術と満足させる技術は違う。
まず目的から違って、期待させる技術は次の展開への予感をつくり、先へと向かう動機を読者の中に育てることを目的とする。満足させる技術は、既に読者の中にある期待や感情に上手く応え、高まっていた感情を満足(リリース)させることを目的とする。感情(期待)を募らせることと、募った感情を満足させること。これ等はそれぞれ別の技術に通じていないと達成されない。
昨今のドラマ、漫画、アニメ、エンターテイメントすべからく、期待させる技術ばかりが重要視され、高度化していっている感がある。
逆に満足させる技術は、上述したように「満足させたら終わり」というビジネスモデルのために軽んじられるどころか退けられている気がする。いかに満足させず欠乏間を持続させられるかに力が注がれているように見える。
視聴中は興奮し、期待し、わくわくしたけれど、見終わってみると胸に何も残らなかった。視聴にかかった時間だけがむなしく響き、「今日、ドラマ見ただけで何もしていない」という罪悪感にかられる体験が我輩には多い。
視聴を止められないほど面白く満足感の薄い物語、というモデルがビジネス的に優秀なために、物語的満足が稀有となっている。物語による人々への印象が、スナック菓子やジャンクフードを貪り食った後のような後悔に近づいている気がして、不安だ。
我輩もゲームオブスローンズの視聴体験において、「見始めたら面白くて止められなくなるから嫌だな」という文章にすると奇妙な感情を抱いた。何が「嫌」なのかを分析すると、ドラマを見終えた後の虚しさにビビッて視聴出来ないのだ。視聴を終えた時、満足感ではなく、視聴に使った時間への後悔と虚しさで自己嫌悪に陥ることが予感され、「嫌」だった。
期待だけかきたてられ、満足させてもらえないことを身体が理解し、餓えるばかりの体験に本能が惑わされながらも、「NO!」を申し立てている。
それが我輩にとっての「面白過ぎる」ドラマ、ゲームオブスローンズへの反応だった。
期待の処分
結局、ゲームオブスローンズの内容が気になりすぎて、我輩は視聴を止めることが出来なった。ただ、まともに視聴して時間を無駄にしたくなかったので、ネットであらすじを漁り、面白そうなところだけ動画を拾い見て、満足して終えた。満足した、というより、ゲースロへの視聴意欲が煩わしかったので、さっさと処理したという具合。(ちなみに。第七章あたりから明らかつまらなくなったので、つまみ視聴自体も七章で止めた)
実際、満足感などまったくなかったが、「続きが気になる」という欲求が消えたので気持ちは楽になった。
楽しみがなくなった方が楽、というのも寂しい話だが、わくわくさせられるばかりで満足感がなく、いつまでも止まない期待感に疲弊することが続くと、「楽しい」という感情を処分したくなる。
単調な満足
期待させる技術ばかりが洗練され、面白い物語が数多世の中に生まれながら、満足させる技術が磨かれないために淡泊な体験で終わってしまっている感が否めない。
四コマ漫画で表すなら、毎回出だしは面白そうなのに、毎回オチが微妙、というかワンパターン。
漫才で言うなればボケは毎回秀逸なのに、突っ込みが毎回「なんでやねん!」。
どれだけ道中が面白くとも、最後の満足が単調なために、「こんなもんよね」という淡泊な感想で終わってしまう。
結果、物語体験への印象を易くしてしまい、タイパ、コスパを持ち出される。
ビジネスの動線でみると、期待は購入の前にあるが、満足は購入の後にある。期待を膨らませる方が購入してもらえる見込みは大きい。故に期待させる技術が磨かれる。
満足させる技術がマネタイズにつながり辛いのは事実。少なくとも、期待させる技術と比較した時、満足させる技術は金を生む力に劣る。
しかし買ってもらう技術ばかりに長け、買ってくれた相手を満足させる技術が劣るばかりに、人々の物語への期待値が落ちてきてやしないかと不安を覚える。
我輩はそうで、「面白そう」と思えるものは世に溢れているが、「どうせ」という気持ちが拭いきれない。実際、多くのものが道中「面白く」終わりは「まあこんなもんよね」で終わる。
こうした経験が、読者の物語への思い出を貧しくし、次第に物語から離れていく土壌を作ってはいないだろうか。
物語への期待
大いに期待させて欲しい。そうして、期待を越える満足を与えて欲しい。贅沢な話だが、読者は想像をこえるものが最後には欲しいのだ。長い視聴時間をふりかえって、素晴らしい時間だったと己の費やした時間に拍手をおくりたい。
面白過ぎて見るのが止められず、結果、視聴にかけた時間をふりかえって自己嫌悪に陥るような体験はしたくないし、そうして時間を〝無駄〟にすること、費やした時間を〝無駄〟と感じることを恐れている。
期待させるなら、期待以上に、満足させて欲しい。
期待以上の満足なんて味わうことの少ない世の中を生きる我々が、物語に求めるのはこのような〝圧倒的な満足感〟ではないだろうか。
まぁまぁとか、こんなもんとか、悪くないなんて、いちいち物語に求めちゃいない。
それとも、我輩が物語に高望みし過ぎているのか。物語の圧倒的な満足感に感動してきた人間のノスタルジーだろうか。
期待につりあわない満足しか提供できなければ、物語というタイパの悪いエンタメは、人々を惹きつける力を失っていくと我輩は考える。
可愛さ余って憎さ百倍、ともいう。
期待するからこそ失望し、失望は憎しみや怒りに転じる。期待を裏切ることは絶対にさけるべきなのに、期待させる力ばかりが長けていく物語は悪しき構造へと陥っている可能性がある。
期待したのに満足が得られないと、気分が悪い。
この当たり前の感情動線を、エンタメを志すなら肝に銘じておく必要があるだろう。