日本人進化論

出生率が東京において1.0を切ったことが話題になった。
日本全体が1を切ったわけではないのであまり誇張は出来ないが、我輩はこれからも出生率は下がり続け、日本全体においても1.0は切るだろうと考えている。

山崎史郎著「人口戦略法案」を読んだ際、日本が直面する人口問題の多さと複雑さ、困難に気持ちの塞ぐ思いがしたものだが、その上で我輩は「呑気な話をしてんな」という感想を持った。
本の内容は、海外のシンクタンクによって「日本は少子化対策に失敗し、人口減少を免れず、今の大国の地位を失う」と公表されたことから始まる。
危機感をもった政府官僚たちが少子化対策チームをつくり、行政としていかに対策を計っていくかを、現実のデータ資料をもとに議論を重ねていく。
小説スタイルをとりつつ、実際の「日本の現状」を明らかにしていくという、一種の暴露本的内容だ。

この本を読んで、内容に暗澹たる気持ちになりながらも、「呑気な」と思ってしまったのは、あくまで登場人物たちが「一億人国家」の保持、出生率を回復し、人口減少を食い止めることを志していた点にある。
並べられる頭が痛くなるような数字や事実の割に、どこまでも人物たちが「一億人」を諦めないでいる姿に、前向きというより頑固であり、目標ありきの頑迷さにも思え、「こんな感覚の連中に人口問題まかせて大丈夫なのか」とフィクションながら不安に思った。
出生率1.8への早期回復が望まれる――望むのは勝手だが現実のレベルはそこにない。回復ではなくいかに低下を止めるか、止められないにしても緩やかに出来るかが我々日本人の足元だろう。
一億人を諦められないでいる登場人物たちには、政府関係者として「一億人は無理です」とはとても言えない政治的問題も見え隠れし、それ故に現実に焦点をあてることが出来ていない印象があった。これはフィクションの中だけでなく、現実の行政(中央にしろ地方にしろ)も抱えている問題に思える。
有権者の手前、人々が持っている日本国像を傷つける発言は出来ない。「一億人」という日本を「無理」とは言えない。「一億人」のために頑張っている姿を見せなければならない――そういうスタイル、政治的態度の選択が人口問題へアプローチしていく前にあるのだろう。
このスタイルの選択時点で、人口問題へのアプローチは間違い、現状態に対する的確な対応がとれず、あらゆることが後手に回っている印象が我輩にはある。
そのために、本の中で提示される日本の現状はヒリヒリするのに、人物たちの態度には「呑気な奴ら」という矛盾した感想を抱いてしまうのだ。

また、この本の中では加味されなかったいくつかの視点においても、日本の人口減少は止まりにくい。
日本はそもそもイデオロギー的に、嫡子以上の子供をそれほど必要としない価値観であり、多産の国ではない。(縦型共同家族であるイスラム圏に比べて)
家族計画、出生コントロールがとれるようになると、出生率は自然2を切るお国柄だ。
日本人にとって、子供が欲しいと、二人目が欲しい、という意味合いは違う。
嫡子以後への社会的、文化的出生圧力が低く、二人以上の子供を持とうという社会文化的モチベーションが少ない。
また高学歴化がすすみ、大学への進学率が五割を上回るような先進国社会において、教育期間、教育費は増加傾向にある。そのため子供への投資は分散よりも集中に寄り、経済的にも一子以上の子供を持つ動機が薄くなっている。
教育格差の結果による賃金格差は人数では覆せないほどの差になっている。
親の資本によるマネーゲームと化している教育において、軍資金の分散はとるべき戦略ではない。
日本人の価値観、集中有利の教育競争、この観点が「人口戦略法案」には欠けていたと思うし、これを加味すればより出生率減少圧力は高まるだろう。
政府が発表する出生率推移予想がつねに外れ、下振れするのは日本国の本能(多産国家ではない)と、資本集中の有利な現状を捉え切れていないからではないかと我輩が考えている。

一億人国家を願うべきではない。
我輩がそう考えるのは、人口置換水準(死亡数と出生数が拮抗し、人口が減らない状態)である出生率2.0以上を目指す政策と、出生率の低下に歯止めをかける政策は根本的に異なると思うからだ。
大は小をかねるで、一億人を目指していれば自ずと出生率の低下も止まるという大味な問題ではない。
衰退期にある身体に、成長期にほどこすような治療を行えば逆効果でより状態を悪くすることもあり得る。
無理なことを求めればそれだけリソースも無駄になる。
現状を認め、一億人国家という日本国像を諦めること、日本国民の自己像の一新から始めるべきではないだろうか。
政治家がいつまでも「一億人国家」を諦められず、人口問題に対して正しい態度を選択できないのは、有権者である国民が自己像を諦められないでいるからだ。
目指せ一億人、これは今では人口動態を考える上で最も間違ったアプローチだと我輩は考える。

では一億人を諦めて、現実的に生きるとはどんな社会か。
2040年に予見されている8がけ社会。労働人口の2割がかけ、多くの現行システムの維持が難しくなる。社会インフラへの影響も大きい。
こういった社会をいかに乗り越えるか。
ここで必要なのがまたしても自己像の一新である。
我々はヒューマンフレンドリーの社会から、システムフレンドリー、テクノロジーフレンドリー社会へと移行する。
その過程で、人間に合わすのではなく、人間がシステムに合わして変わるのだという認識が必要になってくる。
人間がプライムではない。
この認識変換と、システムへの対応の過程で変わっていくライフスタイルこそ、我輩は日本人の進化と考える。
日本人の進化として、日本人に限定するのは、上記した理由で日本は進化圧が高く、他の社会よりも進化に迫られるのが早いと考えるからだ。

ロジスティックも自動運転によって変わるだろうが、単純な自動運転技術の導入だけでなく、自動運転に対しフレンドリーなシステム変換、我々の価値観の変化も必要とされる。
幹線道路の自動運転化はさほど難しくなく、コストにも見合ったものになるだろう。しかしご自宅の玄関先までを完全自動化するのは難しくコストにも見合わない。コンビニや郵便局のようなローカル集荷ポイントにて自己回収を求められるシステムになるかもしれないし、自宅まで届けてもらうにはエキストラ料金が発生する社会になるかもしれない。
介護も新たなシステムやロボット技術が人手不足を解決するだろうが、介護対象者が散らばっていてはコストが高止まりするため、今以上の集住を要求されるかもしれない。
ある程度の年齢になれば自宅を離れ、学校のような介護サービス施設に入寮し、そこで出来ることは貢献しつつ、出来ないことをサービスとして受け取る、というような暮らしの再形成を必要とされるかもしれない。(七十歳くらいからもう一度学校に入学し、そこで同年代の人々と必要とし必要とされ共同生活していくのは、悪い考えではないと思う)
このように開発され進歩していくシステムやテクノロジーに対し、我々人間の方があわせ、暮らしや価値観を変えていく。
人間が変わるということに、我輩は人口問題を抱える日本の活路を見出している。

考えてみれば、人間がプライムである期間は短かった。
Society1.0と呼ばれる狩猟社会から始まり、2.0農耕社会の長きが人類史のほとんど。その間、我々は山河の形に合わせて住まい、自然の移りかわりに応じて糧を得て保存の知恵も絞ってきた。環境に対しフレンドリーな生き物だったのだ。
それが3.0工業社会で力をつけ、自分たちをプライムとして、ヒューマンフレンドリー、人間中心的世界を形成してきた。
それが4.0情報社会、5.0新世界と進むうえで再び環境がアンコントローラブルとなり、人間中心的考えでは社会が回らなくなってきたのだから、我々はまた一つ時代を進むべきなのだろう。
人間に環境を合わすのではなく、環境に人間があわして変わる。システムやテクノロジーに応じて、我々が価値観やライフスタイルを変えていくのは歴史的にみてもそう異質ではないと感じる。
少なくともこの進化は、出生率2.0を目指して疲弊することや、移民による人口輸血を試みた際に生じる拒否反応を考えれば、日本社会に対するインパクトは小さいと思う。

テクノロジーにプライムをゆずる。環境に応じて、我々がライフスタイルを変化させる。
そのために自己像や価値観を再認識していく。この精神的過程をケアすることは、日本の人口問題を考える上では欠かせない視点だと我輩は思う。
我々は、我々を諦めていく必要に迫られている。
この自己像の崩壊期において、十分なケアがなされなければ、日本人は諦められないものに追いすがり苦しみ混乱し、必要以上のものを失ってしまうだろう。

一億人国家。
その夢を諦める。それが日本人進化論における、最初の一歩になるのではないだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!