【親ガチャ】戸谷洋志『親ガチャの哲学』を徹底解説【親ガチャの真実 PART2】
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◆親ガチャの真実 PART2
◇紹介書籍
こんばんは、Kazukiです!
本日もさっそく投稿の内容に入っていきましょう!
今週紹介していく書籍たちはコチラになります!
2023年12月13日にKADOKAWAさんから発行されました、
湊かなえ(みなと・かなえ)先生の『人間標本』と、
2023年12月20日に新潮社さんから発行されました、
戸谷洋志(とや・ひろし)先生の『親ガチャの哲学』になります!
本日はこの「親ガチャ」を徹底的に解剖していきます!
◇紹介書籍概要
また今回の紹介書籍たちの概要につきましては、
いつもと同じように下記に詳細を載せておきますので、
もし紹介書籍たちの概要が気になった方がいましたら、
そちらの方たちはぜひ下記をご覧いただければと思います。
◇紹介書籍選出理由
そして今週の投稿に、
本作『人間標本』と『親ガチャの哲学』のこの2冊を選んだ理由になりますが、
そちらにつきましてはパート1の投稿で簡単にですが解説しておりますので、
もし詳しく知りたいという方がいましたらぜひパート1の投稿をご覧ください。
◇投稿内容とその目的
そして、今週の投稿の内容につきましては、
前回のパート1で『人間標本』の内容を完全要約していきまして、
また、今回のパート2で『親ガチャの哲学』の内容を徹底解説していきまして、
そして、次回のパート3でこの2冊を用いたある考察を行なっていきます。
なので、
今週のこの【親ガチャの真実】のシリーズの投稿を、
パート1からパート3まで全部ご覧いただいた暁には、
イヤミス女王が放つデビュー15周年集大成のイヤミス作品を堪能できて、
また、気鋭の哲学者が放つ「親ガチャ」の取扱説明を学ぶことができて、
そして、本作『人間標本』を通して「親ガチャ」の真実を明らかにできる!
という、そんなシリーズの投稿になっていれば幸いだと思っております。
ね、、、。
新年一発目からなかなか仰々しい投稿シリーズになっておりますが、
今年も一切遠慮なしで突き進んでいきますのでお付き合いお願いします。
それでは一緒に、
弱った若者の心を掴んで離さない「親ガチャ」という哲学を、
人間を標本にする衝撃のイヤミスで読み解く読書の旅に出かけましょう!
◇「親ガチャ」が生み出す「親ガチャ的厭世観」
それではさっそく今回の投稿の内容に入っていきますが、
本作『親ガチャの哲学』の内容を理解していくのにあたって、
まず最初に理解しなければならないのが、
この「親ガチャ」という言葉の意味になるかと思いますので、
まずはこの「親ガチャ」という言葉への理解を一緒に深めていきましょう。
本作『親ガチャの哲学』の中で語られている「親ガチャ」の定義をまとめると、
次の4つの定義にまとめることができまして、それがこちらになります。
どの家庭に生まれてくるかは運任せ
その運によって人生が左右される
運によって決められた家庭の条件を、その後の人生で変えることができない
親ガチャは、多くの場合、それに「外れた」と思っている側から語られる
なので、例えば、
裕福で愛情をたくさん注いでくれる家庭に生まれた子どもは、
親ガチャに「当たった」わけなのですが、
そのような子どもの人生というのは、
その家庭の資金力や親の愛情によって、
努力すればするほど報われることが多いため、
「自分は親ガチャに当たったから幸せを掴み取れた」とは考えず、
「自分は努力をしたから幸せを掴み取れた」と考えます。
しかし、一方で、
貧乏で児童虐待をするような毒親の元に生まれた子どもは、
親ガチャに「外れた」わけでして、
そのような子どもの人生というのは、
その家庭が貧乏な故に、また、虐待をされるが故に、
努力をしても報われないことが多いため、
「自分がこんなにも不幸なのは全部親ガチャに外れたせいだ」と考えます。
これが親ガチャの定義とそのメカニズムなんですね。
そして、その親ガチャに外れた子どもたちが先のように、
「自分がこんなにも不幸なのは全部親ガチャに外れたせいだ」と考え、
この世界を忌み嫌う価値観というのを本作の中で戸谷先生は、
「親ガチャ的厭世観」と呼んでおり、
こ〜れ〜が、非常に厄介な価値観なんです。
というのも、この「親ガチャ的厭世観」を持つ、
親ガチャに失敗した子どもというのは、いずれ成長して大人になり、
その厭世観というのは、大人になるにつれて更に凝り固まっていきます。
そうして、そのように凝り固まった厭世観が、
その人間の内側だけを蝕んで留まってくれればいいのですが、
時にこの厭世観は外側へと反転しうることがありまして、
さらにその際には、攻撃性を持つことだってあり得ます。
それはつまり何を意味するのかというと、、、
それは、この「親ガチャ的厭世観」が、
「無敵の人」の自暴自棄を引き起こさせることがあるかもしれない、、、
ということを意味しています。
この「無敵の人」というのは、
「2ちゃんねる」の開設者である西村博之さんによって広められた言葉ですが、
その言葉の意味するところとしては、
「無職等で社会的信用が皆無で逮捕されても痛くも痒くもない人」を指します。
現に、本作の中で戸谷先生は、
2008年の6月8日に起きた「秋葉原通り魔事件」というのは、
「親ガチャ的厭世観」によって犯人が自暴自棄を起こしてしまい、
その結果、「無敵の人」状態に陥り、犯行に及んだと分析されています。
そして、これこそが、、、
「親ガチャ」が生み出す「親ガチャ的厭世観」の恐ろしさ、
というわけなのです。
◇結果強まるベネターの「反出生主義」思想
そうして、この「親ガチャ的厭世観」の悲惨さを受け、
近年、哲学の世界で注目されている思想というを、
本作の中で戸谷先生は紹介されておりまして、
それが、、、
南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターによって提唱された、
「反出生主義」という思想になります。
この反出生主義という思想は、端的に説明すると、
「生まれてこないほうがよかった」と考える極論な思想になりまして、
これだけを聞くと、とても感傷的で悲観的な思想のように思えますが、
この思想自体は、あくまでも論理的に導かれた思想だと戸谷先生は解説します。
というのも、
この反出生主義を提唱したベネターは、
まず、快楽があることを「よい」こととして、
苦痛があることを「悪い」こととして位置付けます。
例えば、食後のデザートを食べたら、
「美味しい」という快楽を得られるから、それは「よい」ことで、
また、食後に腹痛に襲われることは、
「痛い」という苦痛を伴うので、それは「悪い」ことという具合です。
一方で、ベネターは、
快楽がないことを「悪くない」こととして、
苦痛がないことを「よい」こととして位置付けます。
例えば、食後のデザートを食べられなくても、
「辛い」という苦痛を伴うわけではないので「悪くない」ということでして、
また、食後に襲われた腹痛を胃薬を飲んで和らげることは、
「痛い」という苦痛をなくしたことになるので「よい」ことという具合です。
そうして、
この一連の快楽と苦痛の関係性というのを、
人間の出生の問題に重ね合わせてみると、、、
まず、どんな人間であっても、この世界に生まれてくれば、
必ず快楽と苦痛の両方を経験することになり、
それはすなわち、この世界に生まれてくることは、
「よい」ことであると同時に「悪い」ことでもあるわけなのです。
しかし一方で、もしこの世界に生まれてこなければ、
快楽と苦痛の両方を経験することは絶対になく、
それはすなわち、この世界に生まれてこないということは、
「悪くない」ことであると同時に「よい」ことでもあるわけなのです。
つまり、この世界に生まれてくることは苦痛を伴うため「悪い」ことで、
この世界に生まれてこないことは苦痛を伴わないため「よい」ことなので、
だからこそ、どんな人間であってもこの世界に生まれてこないほうがよい!
とベネターは主張するわけなのです。
もちろん、この説明を聞いている皆さんは、心の中では、
「なんて酷い暴論なんだ!」と思われている方がいらっしゃるかと思いますし、
本作の筆者である戸谷先生も本作の中で同じように述べられています。
しかし一方で、この暴論とも言える「反出生主義」が、
近年注目を浴びてしまっているという事実自体は、
決して見過ごすことのできない社会の現状でもある、
とも戸谷先生は述べられています。
◇「自分の人生」を自分の人生として引き受ける
そのため戸谷先生は本作の中で、
この反出生主義を渇望してしまう、
親ガチャ的厭世観による苦しみから逃れる思考、
というのを解説されておりまして、
それが、、、
「自分の人生を自分の人生として引き受ける」という思考です。
しかし、この文言だけでは、
正直何が何だか珍紛漢紛だと思いますので、
順を追って解説していきます。
まず戸谷先生は、
先の親ガチャによって生じる親ガチャ的厭世観の問題点として、
「決定論による責任の放棄」という点を挙げておりまして、
今しがた登場したこの「決定論」という考え方は、
非常に大雑把に言ってしまうと、
「この世界で起こる自然現象はすべてあらかじめ決定されている」
という思想を指しております。
これはどういう思想かというと、
例えば、天気予報で「明日、雨が降る」という予報が、
なぜできるのかというと、
その「雨」に先行する様々な原因となる自然現象を観測した結果、
「明日、雨が降る」と予報することができるわけです。
そして、この原因と結果の必然の連鎖を、
雨だけではなく、この世界において起こるすべての自然現象に拡大した考え方を、
「決定論」と言います。
では、この決定論の思想というのが、
なぜどのようにして先の「責任の放棄」に繋がるのかというと、
この世界で起こる自然現象は、
この世界が誕生した時にすべてあらかじめ決定されているのであれば、
それはすなわち、、、
自然の一部である人間の行動というのも、
すべてあらかじめ決定されていることになり、
その決定されている行動に対して責任を負う必要はない、
ということを決定論では意味するからです。
なので極端な話ですが、
親ガチャの外れた人間が「秋葉原通り魔事件」という行動を起こしても、
その行動はあらかじめ決められていたことであり、
その行動に対して、その人間に責任を追求することはできない、
との見方も決定論の思想の中ではできてしまうわけなのです。
もちろん、これは暴論ですが、
決定論が持つ責任の問題というのは、
今もなお根強く哲学界に蔓延る問題だとも戸谷先生は述べています。
なので、戸谷先生は、
その決定論による責任の問題を打開するべく、
先にも述べた、
この「自分の人生を自分の人生として引き受ける」という思考を、
本作の中で提唱しております。
ではこの思考は具体的には何を意味するのかということですが、
この思考を理解するために戸谷先生は本作の中で、
20世紀ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガーが提唱した、
人間の抱える「無さ」という概念を用いています。
というのも、ハイデガーが言うには、
「私が私である」というこの現状というのは、
「誰のせいにもでき無い」現状であり、
したがって、私の責任は私が背負うしかありません。
それはつまり、私たち人間というのは、
決定論であらかじめすべてが決まっているから、
責任を負わなくていいのではなく、
人間であるのであれば、
責任の所在を証明するものがなにも「無く」とも、
そこに責任は根源的に存在しているものなのである、
ということになるわけなのです。
なので、どんなに親ガチャが外れていて、
酷い家庭環境の中で育ったのだとしても、
その子どもが人間であるのであれば、
責任は自ずと生じるものであるというわけなのです。
だからこそ戸谷先生は、
「自分の人生を自分の人生として引き受ける」
という思考こそが、
親ガチャによって生じる親ガチャ的厭世観による苦しみから、
逃れる方法だと述べられているわけなのです。
◇「他者との連帯」を持つことが処方箋になる
とはいえ、
この「自分の人生を自分の人生として引き受ける」という思考を、
持っていただけで、
親ガチャによって生じる親ガチャ的厭世観による苦しみから、
本当に逃れられるのかと疑いを持つ方はいらっしゃると思います。
なので、戸谷先生は、
この「自分の人生を自分の人生として引き受ける」という思考が、
親ガチャ的厭世観に苦しんでいる本人が持つべき思考なのだとしたら、
一方で、親ガチャに成功した人々が持つべき思考というのも、
本作の中では解説されていまして、
それが、、、
「〈われわれ〉を拡げていく」という思考です。
これはアメリカの哲学者であるリチャード・ローティの、
「連帯」というアプローチを戸谷先生が噛み砕いて解説した思考ですが、
親ガチャに失敗した人々というのは、
これまで滔々と述べてきたように、厭世観に包まれており、
とても悲観的であり、その結果、反出生主義を抱いたりしています。
そうして、終いには社会的に孤立してしまい、
「無敵の人」となって「秋葉原通り魔事件」を起こしてしまうわけなのですが、
それは、その親ガチャに失敗した人々というのが、
孤独だからこそ起こってしまっている悲劇の連鎖なわけなのです。
なのであれば、親ガチャに成功した人々は、
その親ガチャに失敗した人々に対して〈われわれ〉を拡げていく、
つまり、、、
彼ら親ガチャに外れた人々と、
一つのコミュニティを築くことによって、
彼らの孤独感というのは薄れていくことになります。
そして、一方の親ガチャに外れた人々は、
その孤独感が薄れることによって、
親ガチャによって生じる親ガチャ的厭世観による苦しみを、
自ら打ち砕く活力が生じてきて、
「自分の人生を自分の人生として引き受ける」ことが、
できるようになるわけなのです。
そのようにし助け合いのできる社会こそ、
本当のよりよい社会なのではないのかと、
戸谷先生は本書の中で述べられております。
◆おわりに
いかがでしたかね!
今回のこのパート2の投稿では、
2023年12月20日に新潮社さんから発行されました、
戸谷洋志(とや・ひろし)先生の『親ガチャの哲学』の内容を参照して、
この「親ガチャ」が孕む問題性について徹底解説して来ました!
私自身、この「親ガチャ」という考え方においては、
自分で言うのもなんですが、恐らく、大成功した部類に入ると思うので、
親ガチャに外れた人に対して、とやかく言ったところで、
火に油を注ぐだけだと思うので、何も言うまいと思っていますが、、、
戸谷先生が本作で述べていた「親ガチャの哲学」は、、、
ただただ綺麗事だなぁと私は思います。
もちろん、その綺麗事も時には重要になってくるのですが、
第一に、親ガチャが外れて苦しんでいる人が、
難しい新書を読んで救われるため努力を惜しむか?と問われると、
到底そうは思えませんからね、、、
まず、この「新書」という形態から考え直した方がいいのかなぁと、
個人的な感想としては抱いた次第です。
しかし、本作の中で戸谷先生が述べられていた、
親ガチャの定義の中には個人的に目から鱗の情報もありまして、
それは、、、
「親ガチャ云々いう人は親ガチャに外れた人」だということです。
この点は非常に勉強になりましたね。
そして、次回のパート3の投稿では、
これまでに紹介した湊かなえ先生の『人間標本』と、
戸谷洋志先生の『親ガチャの哲学』の内容を用いて、
ある考察をお届けしていきますので、
そちらの投稿もお楽しみにしていただければと思います!
ぜひ一緒に、
弱った若者の心を掴んで離さない「親ガチャ」という哲学を、
人間を標本にする衝撃のイヤミスで読み解く読書の旅を、
堪能していきましょう!
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どちらもお忘れなきようこれからも応援してくれるととても嬉しいです!
それでは、また次回の投稿でお会いしましょう!またね!