上馬さんこんにちは⑪
私は2020年初秋から、本名のちに顔出しでツイッターをはじめ、2022年初冬に、アカウントを削除して完全に撤退した後、今年初春から、noteのペンネーム「なるはや」として再開し、さらに顔出し本名のサブ垢も作って現在に至っています。
基本的に、今のXのアカウントは、創作活動のプロモと情報収集、万が一仕事依頼があったときや、前につながっていた人との連絡ツールを視野に入れて使っています。
しかし、今から4年前にツイッターをはじめたときの目的は、上馬さんをフォローすることは勿論ですが、「会ったことのない有名人にも福音を伝えるため」という目標がありました。
ただ、それも後付けといえば後付けで、「なんとなく面白そう」というのが1番の理由でした。
私の使い方は、サブカルなどの興味あるワードを思いつきで検索し、投稿日時の時系列を無視して、誰かのツイートにひたすらいいねを押すというものが中心でした。カオスなアウトプットといえます。楽しい時間でした。
しかし、ツイッターの世界が、ときにさかなクンだったら「ギョギョギョギョ!」と目を向いて叫ぶような魑魅魍魎、戦国時代、魔窟のような場所ともなっていることを知ったのは、それから1年半ほど経ってからです。
(※声質がやや似ているため、私は職場で若干1名の方からさかなクンと呼ばれています)
ツイッターをやる1年半前、クリスチャンの世界もツイッターはわりと荒れていることはなんとなく聞いていました。
しかし、想像を遥かに超える電脳空間の現実を知り、私は一時期、「俺が発病する直前の様子に似ている」と友達から心配されるほどメンタルが追い込まれていきました。
自分に直接向けられたわけでもないのに、生命の危機を実感したのは初めてでした。
しかし、一方で良かったこともあります。
有名無名は関係なく、不特定多数の人たちに、短い言葉といいね、リツイートだけで福音やみことばをささやかにシェアすることができたのは、種蒔きのひとつの方法として無駄ではなかったと感じます。
また、同じ信仰を持つ者同士が、性別や年齢、立場を度外視して、同じ土俵に立ってやり合ったり励まし合う様子を見るのは、新鮮な発見がありました。信仰の励ましを受けたり、視野と想像力の幅が広がりました。
本シリーズは、小学生のときに熱狂的ファンだった児童読み物作家・山中恒先生の「トラブルさんこんにちは」を元ネタにタイトルをつけていますが、山中先生の作品世界は、子供と大人が対等に描かれるというか、とにかくメチャクチャ(でもどこか芯は通っている)という意味でツイッター的ともいえると思います。
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さて、上馬さんを実際にフォローした最初の2年間は、いろんな気づきがありました。
まず、中の人たちは常識人という印象で、無言フォローからスタートしてしまった自分は(当たり前ですが)いつまで経っても上馬さんと仲良くなれませんでした。
また、上馬さんのネタの種類が豊富すぎて、自分はターゲット層に入ってないと感じる投稿もありました。
さらに、上馬さんも本当はしんどい思いをしながら投稿してるのかなと感じる瞬間もありました。
↑私が上馬さんをフォローする直前には、ファンからこんな声も
しかし、上馬さんは数あるキリスト教アカウントの中でも、信徒の右から左まで、さらにノンクリ異教もひっくるめて、ときに巻き込んで、ときに分け入って、笑いや哲学、雑学とともにイエス様の愛(=福音)を伝え続けていることは一貫して感じました。
しかし、中の人も外にいる人も、私たち人間はいつもお笑いだけを求めているわけではありません。
魂の問題については、イエス様の十字架の愛だけが必要なのです。
つづきます。