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斉藤洋イェーデシュタット物語を読む③
たとえば、「ドローセルマイアーの人形劇場」では、主人公のエルンストは、安定した仕事に就きながら、今の生活に疑問を抱いています。
本作は、だから転職をすすめるという安直な話ではありませんが、エルンストが、人生の転機と向き合い、自分の決断で1歩を踏み出したあとに、見えない壁を乗り越えるまでの様子が、まさに超現実的な手法で描かれています。
その中で、印象的な場面が挟み込まれます。
エルンストがこども時代に飼っていた愛猫を思い出すミステリアスなエピソードです。
「ミースミースは神様に呼ばれたのよ。猫は死ぬ時は、飼い主に姿を見せないものなの。」
エルンストの母親はそう言ったが、それから何日もエルンストはミースミースをさがした。しかし、だれに聞いても、ミースミースを見たものはいなかったのだ。
エルンストがミースミースと再会する場面も含めて、具体的な説明はないままぐいぐいと読ませていきます。
次の「アルフレートの時計台」でも、主人公の回想シーンが書かれています。
少年時代というのは楽しいばかりではない。悲しい記憶もある。
こどもの頃に旧友を失った故郷で、大人になったクラウスは、死んだはずのアルフレートと時計台の中で、最初は市役所が雇った探偵と疑われながらも、現実的とも夢想的ともとれるやりとりを交わします。
「それでクラウスは?」
「えっ?」
「だから、クラウスは何になるんだ。」
「あ、ぼくか。たぶん、裁判官。パパがいうには、世界でいちばんえらいのは裁判官らしい。」
「それは、ぼくも賛成だ。食べ物を作る仕事をべつにすれば、えらい仕事は三つしかない。裁判官と医者と、それから芸術家だ。この三つはもともと、神様の仕事だからね。」
(中略)
「そうさ。だから、画家は、ものを創るっていう神様の仕事をしながら、大金持ちにもなれるから、ぼくにはちょうどいいんだ。」
将来の夢は裁判官だったクラウスが、なぜ小児科医になったのかは、ここでは説明を控えます。
感情が見えない淡々とした語り口からなる結末部分の流れは、道理や理屈を超えて胸に迫るものがあり、励まされ、引き込まれる力があります。
この作家は、特定の世界観には固執しないタイプのようで、別作品では古事記や西遊記のリライトをしたり、本シリーズ3作目では、ギリシャ神話のサモトラケのニケが出てきますが、イェーデシュタットは舞台がドイツというのもあるのでしょうか、カトリックとプロテスタントの話が出てきたり、教会美術の天使の翼について考察するなど、キリスト教色が背景として滲み出ています。
それでは、「オイレ夫人の深夜画廊」に話を移します。
実は、2作目は、私が洗礼を受けた前後、準引きこもりだった放送大学の学生の頃に読んだのですが、3作目は、発売から5年以上経ってから(3〜4年前)、つまり社会人になってから、ようやく図書館で借りてきてサイゼリヤで読んだのが最初でした。つづく
〈※余談ですが、作者の斉藤洋自身は、「童話作家になる方法」にて、スーツはいわゆるツルシのを買って着ていることを明かし、「童話作家あるいは児童文学者なんて、そんなにもうかる商売ではないのです」といっている(193ページより、敬称略)〉