空想短編小説:真夜中の温泉9

「おい……お前、よく見ると、菅田将暉にも瓜二つだな。髪型もう少し変えたほうがいいぞ」
横に並んだ男は、さっきとは打って変わり、死んで生き返ったように顔を蒸気させながら、ぼくの頭をちょいと指差した。
「うん、トム・クルーズにも若干似ている」
「適当なお世辞はやめてください」
ぼくは、この植木川賞作家は、なぜ県知事選挙に持ち上げられ、さらにこの男がこの場所に今なぜいるのか、全くもって意味が分からなくて頭が痛くなってきた。

大人の世界は、正攻法のコミュニケーションが通用しないのか。それとも、この男が単なるわがままをいっているだけなのか。はたまた、◯×県の関係者との利害が絡んでいるのだろうか。

「どうして出る気もない知事選に出るなんて周りから思われて、それをはっきりと否定したり断ることをせずに、逃げ出す必要があるのですか?」

ぼくが喉もとから出かかった素朴な疑問を、どうにか理性によって抑えたとき、自分がこの温泉宿にやってきた経緯がぱっと頭に浮かんだ。

「さあ、今度は君の番だ。なんで君は髪の毛を剃り上げ、この温泉宿に1人旅に来たんだい?」
ぼくの心理的葛藤とは裏腹に、男は、なんの屈託もなくぼくの目をじっと見ながら、急に真面目な顔つきになって尋ねた。

ぼくは、目をつぶった。
何を話そう。なんて答えよう。どんなことを伝えたとしても、この隣にいる人間に、ぼくのすべてが伝えられるだろうか。かりに伝えられたとして、それで何かが変わるのだろうか。

そのときだった。
「あっ……!」
ぼくは閉じたままの我が目を疑って、思わず目をつぶったまま口を開いた。
真っ暗な瞼の中に、アルマジロの大群のイメージが、沢山のアルマジロたちが大草原で戯れる光景が、まざまざと現れたのである。
「イメージできました……ようやく、ようやくイメージできました!」
「あん? 何のことだ。もう一度いってみろ」
「アルマジロです、大草原のアルマジロですよ」
ぼくの口からアルマジロの「アル」が出た途端、男の顔から血の気がすっとひいていくのをぼくははっきりと見てとった。
男は、ぎゅっと目をつぶると頭を両手でかきむしった。
「アルマジロの話はもうやめろ。その話はもう終わった!」
「なんですって?」
ぼくは、頭の中のアルマジロの群れから、2頭のアルマジロだけが抜け出して、さらに大草原一帯が夜空に染まっていくイメージまでくっきりと心に浮かんできていた。
「ほら、ほら……アルマジロの心温まる物語が今思い浮かんできましたよ」
「貴様……一体どこまで俺の心の傷をえぐり続けたら気が済むんだ」
はっとして目を開けると、目の前に男がいて、まるでブルドッグのようなうなり声をあげながら、湯舟の中で仁王立ちになっていた。

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