空想短編小説:真夜中の温泉7
いつの間にか、外ではかすかに霧雨が降っていた。
男とぼくは、黙って寝転び湯に移動する。
「さあ、想像してみてくれ。ここがサウナだと」
男は絶え間なく流れ続ける浅いお湯の中で寝転びながら、ぼくの横顔を見た。
「そんなの無理ですよ。だんだんと外も冷えてきましたし」
「そんなことはない。ここはサウナだ」
男はすっと起き上がると、タオルを巻いたまま、腰を宙に浮かせた。
「どうだ、エア・サウナだ。ざまあみろ。さあ、語り合おう」
「もうやめましょう。こんなことに何の意味があるんです」
ぼくは、頭にのせたサングラスを地面に勢いよく投げつけたくなる衝動をやっとの思いで堪えると、男の肩をぽんと軽く叩いた。
「何をするんだ! やめたまえ。今ので空気椅子が台無しになるところだったぞ」
男はかっと目を見開くと、ぼくの頭の上をパッと軽くはたいた。
「人の気持ちの機微を理解できない……だから、君は人を愛したことがない人間だといったんだ」
「どういうことですか?」
男は再び中腰になって、寝転び湯の上で空気椅子状態のまま、真顔で話を続けた。
「俺がなんでここにいるかって? 決まってるだろ、そんなもん」
「なんでですか?」
「知事になるなんて、まっぴらごめんだからだよ!」
男はそういうと、いきなり顔をしかめて額を抑えた。
「おっといけない、いけない。サウナはもっと暑がるべきだったな。まったく、エア・サウナは辛いぜ」
ぼくはそのとき、男の腕に鳥肌が立っているのを見て、なぜだか分からないけど、ものすごく男に対して気の毒な思いが込み上げてきた。