連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第5夜

 初出 エブリスタ 2020年2-8月
 連載時タイトル「真夜中のカフェ」一部改稿

 5日目。おじさんからの国際便は、午後8時すぎにお店に届いた。
 現金書留なのに、包みが大きい。中を開けてみると、先月分の家賃と一緒にキムチが1パック入っていた。
 キムチだけに、ほんの気持ちということだろうか。他は何も同封されていなかった。

 昨日は結局、自分の仮説は外れてしまった。もっとも、表の通りに出なかったなら、単に寡黙なお客様にエスプレッソをお出しするだけで済んだかも知れない。
 でも、それでは自分の気持ちが納得いかなかっただろう。昨晩は奉仕精神に燃えていたのだ。明け方、燃え尽きるまでは。
 ぼくは、届いたキムチを冷蔵庫にしまうと、家から持って来た文庫本をリュックサックから取り出した。

 時刻は午後11時。
 昨日の静寂が嘘であったかのように、お店の有線放送はいつの間にか元通りに直っていた。

 読書は思うように進まない。
 ぼくは、エプロンのポケットに入れたスマートフォンを取り出した。
 だれからも連絡は来ていない。LINEも、Twitterも、 Instagramも、特に大した知らせは見当たらなかった。
 今日は金曜日。外の人通りは、いつもより多い気がする。

 ぼくは、昨日のことで力が抜け、お店の留守番にやる気が湧かなくなっていた。
 学習性無力感か……。どうしたって変なことが起こるのだ。このお店では。真夜中には、必ず。
 理由は分からない。自分が「ガチョーン」を想像したからかも知れない。あるいは、接客をする中で、自我を出しすぎ、黒子に徹しなかったからだろうか。
 ぼくは、ストレスが重なると、インターネットの世界に逃避したくなる習性があった。
 なにかこう、自我を忘れてしまうような刺激的なものでも見れないかな……。YouTubeを検索しようと、ぼくが液晶画面に触れようとしたそのとき、いきなり若い男の声が響いた。
「すみません……」
 お店の半分開いたシャッターをくぐって、自動ドアになっていない自動ドアを開けて、自分より10歳くらい歳上のお兄さんが、いつの間にかお店の中に入ってきていたのだ。
「あ、すみません。ごめんなさい。いらっしゃいませ」
 ぼくはあわててスマートフォンをしまいこむと、とりあえずお辞儀をした。
「こちらのお店、今の時間やっているんですか?」
 見ると、そのお兄さんのそばには、小学生くらいの少年が立っていた。
「はい、今週だけ、臨時営業なんです。朝5時までです」
「あの~、実は申し訳ないんですけど」
 そのお兄さんは、本当にすまなさそうな顔をして続けた。
「この子をちょっと預かってもらえませんかね?」
「え? 預かるというと?」
 うちは託児所ではなくカフェだといおうとしたとき、お兄さんは間髪入れずにこういった。
「すぐ戻ります!」
 お兄さんはそのままお店を飛び出して行った。
「ちょ、ちょっと……!」
 お店を出ると、ワゴン車が猛スピードをあげて左側の十字路に走り去るところだった。2日目の夜、ドロ人間たちが行ってしまった方向だ。
「なんなんだ……」
 ぼくがお店に戻ると、少年の顔を見て度肝を抜かれた。
 さっきの少年は、顔に葉っぱの描かれたお面を被っていたのだ。そして、嬉しそうにこういった。
「悪いけど、ちょっとおじゃまさせてもらいますね」

 その少年……いや、お客様は、丁寧なですます口調で話しかけてきた。
「アイスコーヒーはありますか?」
 まだ声変わりもしていないから、小学4、5年生くらいだろうか。ぼくは慎重に応じた。
「ええ、ありますよ。でも、こんな遅くに大丈夫かな?」
「アイスコーヒーください」
 お客様は間髪入れずにそう返事をした。その言葉には、「俺はアイスコーヒーを飲むためにここに来たんだ」とでもいわんばかりの信念が感じられた。
 ぼくは、夜遅くに小学生にコーヒーなんかお出しして、あとで問題にならないかと内心心配になった。でも、注文通りアイスコーヒーをお出しした。
 お客様は、被っているお面の隙間から、ストローを差し込むと、コーヒーにシロップを混ぜ、そして美味しそうにすすった。
「酸味と苦さのバランスが相まって、さらに氷で薄められた砂糖と調和されて格別な味になってますね、これは……」
 まるでなにかの評論家のような口ぶりで、お客様は感想を述べた。
「ありがとうございます。ところで君は、さっきからどうしてお面を被っているの?」
 そう聞くと、お客様は身を乗り出した。
「それを聞きますか? それなら、そもそも、なんでぼくが、このお店に預けられて、ぼくのお父さんは行ってしまったのか、のほうが、もっと気になるんじゃないですか?」
 いちいちいうことが勘にさわる子供だった。だが、子供なので優しく応じなくてはいけない。
「じゃあ、それを聞こうか」
「ちょっと外に出て話しませんかね。どうせお客さんはぼく1人ですから。あなたも暇でしょ」
 この野郎……。ぼくは怒りをこらえながら答えた。
「ごめんね。今は一応営業中だからね。それに、お父さんももうすぐ戻ってくるんじゃないかい」
「朝まで戻ってきはしませんよ」
 お客様は、吐き捨てるようにそういってから「フォッフォッ」と笑った。
 さらに、ぼくを挑発するようにこういった。
「怖いんですか?」
 そのとたん、ぼくの脳裏に、おじさんからいわれた言葉がまたしても思い出された。
「お客様には、どんな時であっても真心を込めてフレキシブルに接するように。公序良俗に違反しない限り、好き勝手にやってくれ」
 ぼくは、一拍置いて答えた。
「よし。なら行こうか」

 お店の窓に貼り紙で、自分の携帯番号が書かれた書き置きを残し、ぼくは店の電気とクーラーをつけっぱなしにしたまま、お客様と店を出た。
「鍵をかけるからちょっと待っててね」
「随分と用心深いんですねぇ。フフフ」
 随分と上から目線の子供だが、なぜか憎めないところもあった。とにかく今夜は、ふたりで真夜中の街中に繰り出すことになったのだ。

 ドロ人間や、さっきのお兄さんが向かった十字路をまっすぐ左に進むと、小川に面した散歩コースがある。春になると、そこはあたり一面が桜で満開になるところだ。今は夏なので、桜の木には緑の葉っぱが生い茂っている。今日はそのコースをふたりで一周することにした。
「ぼくは今、昼夜逆転しているんです」
 こんな暗い夜道で、お面を外せば良いと思うが、お客様はお面をつけたまま歩く。歩きながらしゃべりはじめた。
「夏休みが明けるまでには戻さないとまずいんですけど……」
 ぼくたちは、スマートフォンのライトを懐中電灯代わりにして、ひたすら前を進む。風がひんやりとして気持ちがいい。
「お母さんは、今妹とおじいちゃんちに帰ってるんです」
 お客様は、かなり話好きな子供のようだった。色々身の上を打ち明けてくれる。
 真上の空を眺めると、今夜は満月だった。月の光が左側の川面に反射して、きらきらときらめいている。
「それでお父さんは?」
 ぼくが歩きながら尋ねると、お客様はいきなりため息をついた。
「まだそれを知りたいですか?」
「え?」
 ぼくは、お客様が自分を散歩に誘った目的が分からなくなった。
「だって、それを話すために表に出たんでしょ」
「しっ!」
 お客様がいきなり声をひそめた。
「猛獣のうなり声がしますよ」
 ぼくは、ギクッとして思わず立ち止まった。
 どこかから、ライオンか虎のような獣の鳴き声が小さく響き渡っている。
 お客様は、急にぼくの手を握った。その手は冷たい汗でびっしょりと濡れている。
「神様、助けてください……」
 小さい声でつぶやいたのは、ぼくではなく、お客様のほうだった。

 ぼくは、声に出してこういった。
「イエス・キリストの名によって命じる。悪魔よ、立ち去れ!」
 そのとたん、猛獣のうなり声はすぐさま消えた。

 ぼくとお客様は、黙って道をまた進みはじめた。
 おかしいな……。この川沿いの道は、前に1、2度歩いたことがあったけど、こんなに長い距離ではなかったはずだ。
 必ず途中で、川沿いをUターンできる橋とつながった道路に飛び出すはずなのだ。けれども、今日はずっと変わらずに道はまっすぐ延び続けている。
「ねぇ、コーヒー屋さん」
 隣を歩くお客様が、おもむろに口を開いた。
「なんだい……」
「ちょっと右を見てみてください……」
 ぼくたちが歩いている散歩道は、左手に桜の木を挟んだ川が、右手にいくつもの住宅地が並んでいる。ぼくは立ち止まって、右側に顔を向けた。
「あれぇ?」
 そこに住宅地はなかった。
 ぼくの目に飛び込んで来たのは、人工的な建造物がすべて取っ払われた、なでらかな草原だったのだ。
「ちょっと、ここでひと休みしませんか」
 お客様はそういうと、いきなりその草原に向かって走り出した。ぼくはあわててあとを追った。

 だだっ広い草原は、果てしなくあたり一面に延びている。月明かりとスマートフォンのライトでは、その範囲は特定できなかった。
 お客様は、川から30メートルほど離れたところまで一気に走ると、ごろんと草の上に寝ころんだ。
「今日は月がよく見えますねぇ……」
 このお客様は、本当に子供なのかな……。子供に化けたおっさんなのではないか。そんなことを考えながら、ぼくはお客様の隣に腰をおろした。
「ねぇ、コーヒー屋さん」
 お客様が、ぼくに尋ねかけた。
「さっきは、どうやって猛獣を追い払ったんですか?」
「あ、あれはね……」
 ぼくは返事をした。
「ぼくの信じている神様の名前を使って追い出したんだよ」
 お客様は、ずっと葉っぱが描かれたお面を被り続けているから、表情が分からない。
 一体今、ぼくの言葉を聞いてなにを思っているんだろう。ぼくは話を続けた。
「ぼくの信じている神様は、この世界の本当の所有者だから……」
「なるほど、なるほど」
 お客様は、さも深く納得したようにそういうと、小さくうなずいた。
「その神様の名前に力があるというわけですね」

「ぼくのお父さんは……」
 お客様が月を見つめながら、ゆっくりと語りはじめた。
「夜になると、決まって行く場所があるみたいです」
「夜になると行く場所?」
 ぼくもお客様のそばで横になりながら相槌を打った。
「はい。まあ昼間っからの日もありますけどね……」
 なんだろう。ぼくは、いろいろなイメージを頭に思い浮かべたけど、もし、外れていたら恥ずかしいなと思って、なにもいえなかった。
「コーヒー屋さん。あなたにもそんな場所があるんじゃないですか?」
 お客様は、腕を後ろ手に組んで枕にしながら、冷静な口調でそういった。
「えっ? そんなのはないよ」
「ホントですか?」
 お客様は、お面をつけたままの顔をこちら側に向けた。
「行くのをやめたくてもやめられない場所。家族を犠牲にすることをもいとわない。自分で自分の心にふたをして、思わず向かってしまう……」
 ぼくはお客様のお面を無理矢理はぎとった。
「真面目な話をするときは、お面くらい外せよ」
「なにするんだよ!」
 暗闇の中、月明かりに照らし出されたお客様の顔は、目がギロリとつりあがり、その口調は一瞬にして変わっていた。
「この野郎。お面を返しやがれ!」
 お客様はぼくに向かって指を差した。
「ぼくはそのお面があるから、さっきから安心していられたんだよ。お前の信じる神様がどうだか知らないけどな。ぼくがもし神様だったら、お前なんか今すぐ地獄に送っているぞ!」
 ぼくは、お面をお客様のほうに放って返した。
「すみません」
 謝ったのは、ぼくではない。お面を被りなおしたお客様のほうだった。
「ぼくは、お面がないとダメなんです……。特に、今日みたいな夜には」
 ぼくは、すぐに言葉を発することができなかった。そして一拍置いてから、お客様に答えた。
「いや、こちらこそ、ごめんなさい。確かに、自分もそんな場所に行ってしまうときが、今まであったかも知れません」

 そのとき、すぐそばの草の間から、ゴロゴロとまるで猫がのどを鳴らすような声が聞こえてきた。
「あれは、ライオンですよ」
 お客様がいうより先に、ライオンが現れた。そのライオンはこちら側に歩み寄ると、穏やかな鳴き声をあげながら、自分とお客様のそばに体を寄せてきた。
 その姿は少し怖いけど、その様子に怖さは感じなかった。さっき聞こえてきた猛獣のうなり声とは、まるで違うライオンだった。
「さっき、あなたが悪魔を追い出してくれたからですね」
 そのライオンの頭をなでながら、お客様がそうつぶやいた。
「ライオンも優しくなっている」

 それからそのライオンと別れたあと、ぼくとお客様は川沿いを折り返して、お店に戻った。
 時刻は午前2時。お店の前には、ワゴン車に乗った、あのお兄さん、そしてお姉さん、そして小さな女の子が待機していた。
 ぼくがなぜ、お客様を連れてカフェを抜け出したかを問うことも、咎めることもしないまま、お兄さんはお客様に謝っていた。
 今まですまないことをした、今の会社はもうやめて、また新しい仕事に就くから……、という風な話だった。
 お客様は、いつの間にかお面を外していた。背負っていたリュックサックの中にしまい込んでしまったらしい。目もつりあがってはいなかった。少し潤んでいるようにも見えたけど、たぶん気のせいだろう。
 お客様は、無言で自分に頭をさげると、車に乗り込んだ。お兄さんが代わりにコーヒー代を支払うと、車を発車させた。
 ぼくは、お客様がお店をあとにしたあと、ひとりきりになったカフェの中で、スマートフォンを開きながらふと思った。
 今、この瞬間にも、お面を被った子供と大人は、この広い世界には沢山いるのかも知れない。

この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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