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上馬さんこんにちは⑬

※合間のXの引用等は本文とは無関係です。

さて、この連載もいよいよ最終回です。

元々この連載は、私のこれまでの歩みや考えの変遷をゆるく整理してまとめ、自分の中のエポックメイキングを目指してはじめたエッセイでした。

それは、具体的には、上馬さんを糸口に私の考えを述べるというものです。

それで「ドラえもん」のようにエンドレスで連載を続ける考えもありましたが、これはちょっと自虐的には「虎ならぬ上馬さんの威を借りた狐」みたいな感じになり、次第にこの形式に限界を感じてきました。

ホームレス体験を綴って大ブレイクした吾妻ひでおさんが、「失踪日記」の巻末対談で語っておられたように、お笑いとは自分を第三者の視点で見るのが基本ともいわれています。

上馬さんの活動が、未信者、異教徒、さらには自称バックスライドのクリスチャンにも好意的に受け取られている秘密は、お笑い特有の「俯瞰の視点」にあるかも……と書くと、また上馬さんの威を借りた狐になってしまうのでもうやめます。


「上馬さんこんにちは」は、上馬さんの1ファンであり、イエス様を信じる1クリスチャンにすぎない私のただの変な見解と感想です。

後年、本連載を読み直して、自分の思い違いに気づく日がくるかもしれません。

分かりませんが、上馬さんの枠内だけで物事を考えるのは窮屈となり、上馬さんもそんなことを望んではおられないと思います。

世の中は急速に移り変わっています。

特に、コロナ禍前と後では、正直、今とは状況が変わっている事柄ばかりです。

教会のあり方も、受け止められ方も、一律的ではなく、選択肢も幅広く、多様なものへと、ゆるやかにシフトチェンジしてきています。

ただの建物だけの教会の時代は終わった、ともいうべきでしょうか。どうでしょうか。難しいので答えは出しません。

昨年11月、下記のオンラインイベントで、東方の3おじさんが「最強の布教方法は布教しない」という話題で楽しそうに語り合っていたのが印象的でしたが、これは、ある意味で真理だと今思います。

最後に、MAROさんの本と、LEONさんのポストを引用して終わりにします(追記:最後のきのこの山たけのこの里のポストは合作?)

 我ながら、この本は明らかに「偏って」います。僕は「誰でもない」「客観的で」「罪なく、名もないわたしたち」として、この本を書いていないからです。明らかにキリスト教徒として、また一種の実存主義者、しいて言うならキルケゴールに近い有神論的実存主義者として、この本をMAROという形で書いています。
 立場を明確にすると対立が生まれるというのは嘘です。むしろ立場を明確にしない「誰でもない」人が増えているからこそ、現代社会は分断しているのです。(中略)人間には、ア・プリオリに愛があります。相手の顔が一人一人の人間として見えるなら愛も生じるんです。

「聖書を読んだら哲学がわかった」MARO、
日本実業出版社、2021年、246ページより

本連載でまとめきれなかったことについては、次のエッセイの機会に書いてみたいと思います。

それが「上馬さんこんばんは」になるか、「上馬さんごきげんよう」になるか、はたまた「ピョンの哲学」になるかは誰にも分かりませんが、皆様、是非またお目にかかりましょう。

その日までお元気で。
ありがとうございました。

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