いがらしみきお「Sink」を再読してみた①

いがらしみきお先生は国民的人気作「ぼのぼの」(1986〜 連載中)で知られるギャグマンガ界の巨匠の1人です。
「ぼのぼの」は、森に暮らす動物たちが繰り広げる、抒情性と哲学が溢れる4コマ(ないし8コマ)マンガですが、巻を追うごとに日常に近づき、ベタなノリツッコミとシュールな笑いの絶妙なバランスで今も安定した作風を保ち続けています。

「Sink」は、そのいがらしみきお先生が、自ら原作・脚本を務めたCGアニメ映画「ぼのぼの クモモの木のこと」(2002)の製作・公開とほぼ同時期にWebで連載した本格ホラーマンガです。

連載スタート時は、どんな話なのかさっぱり分からず、いろんな意味で怖くてスルーしていましたが、16歳のとき「ぼのぼの」26巻の帯に載った全2巻完結の広告を見て、やはり気になり書店で品切れの1巻を取り寄せてもらって読んでから、平積みになっていた2巻を購入して読みました。
およそ「ぼのぼの」の主な購買層とはかけ離れているであろう、実験的で凄みのある展開に魅了されつつも、一見すると救いのなさすぎる不条理で悲劇的(破滅的)な後半に、(巻末に掲載された中条省平さんによる解説を読んで概略は掴めたものの)読了後すぐには本作の意図を理解しかねるところがありました。

そして35歳になった今、久しぶりに本作をピッコマで再読してみました。〈本文中敬称略から敬称に改訂しました〉

「ぼのぼの」20巻に、こんなエピソードがあります。リスのおじいさんが、さびしいときにさびしい笛の音を聞くと、なんだか心が慰められるという話です。
リスのおじいさんは、間違えて転んで腹が立ったときに、あえてもう一度自分で転ぶとゆかいな気持ちになれるというたとえで、そのことをぼのぼのやシマリスくんに説明しようとしますが、ふたりとも理解できませんでした。

「ぼのぼの」24巻では、アライグマくんがふとしたときに感じるさびしさについてのエピソードがあります。
アナグマくんの「だってみんなひとりだろ」という言葉にグサっときたアライグマくんは、やがてその言葉が彫られた土だんごを見てさびしさを感じたときに慰めを得るという話です。

「Sink」を昔読んだとき、これはずばり「毒を以って毒を制す」タイプの話なのだなと思いました。ひとつの寓話として、現実の生き方に対する警鐘として、距離を置いて読まないと、なんとも受け入れ難く、やりきれない物語です。
「ぼのぼの」の作者が描いたという注釈がなければ、おそらく最後まで読み通すことはできなかったでしょう。

平凡な日常の中で、時折ふと感じることのある違和感。当たり前のように、毎日メディアから流れる悲しいニュース。それをずっとは見たくない。聞きたくないという生理的な思い。

気の毒だけれど、自分とは全然関係のない、見知らぬ他人の不幸は、結局は他人事にすぎない。「Sink」は、そんな私たち人間が潜在的に抱いてしまいがちな素朴な感情に基づいた態度に、真っ向から疑問を投げかける一編の長い詩です。その根底には、いがらしみきお先生の怒りと悲しみ(そして意外なことに深い愛情)を感じます。
一般的には、どちらかといえば1巻のほうがより評価が高い声も聞かれる作品ですが(いしかわじゅんさんの「秘密の本棚」小学館クリエイティブ所収の評論が特に読み応えあります)、恐らく当時の作者が描きたかったことは全2巻を通して全部描けているのだろうと久しぶりに再読して感じました。

日常の悲劇をさらなる非日常の悲劇によって過剰に描ききることによって、作者は本作でこの世界を覆う閉塞感の打破を試みたのだと思います。
それを、あえて自分の言葉で表現を試みるなら「原罪の可視化を試みた」といっていいのではないかと思いました。
「原罪」はキリスト教用語ですが、仏教用語だと「業」とかに置き換えてもいいような話ではあります。しかし、登場する人物たちのどの「正義」にも安易に共感や同調ができない自分としては、「原罪」という言葉が1番しっくりするような気がします。

次回では、ネタバレを含めて、本作のあらすじや印象的だった場面を簡単に記し自分の立てた仮説を検討してみたいと思います。

もっと軽い書き方のほうがいいのかな。

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