空想短編小説:真夜中の温泉16
ぼくから視線をずらすと、男は今までで1番大きく目を見開いた。
「おい……なんで象がいるんだ……」
「象?」
ぼくには見えない。ただ生垣の周りの木の葉や雑草が、なんとも不自然に揺れ動くのが見えるだけだ。
「子供の象だな。まさしく子象(小僧)だ」
男は手で口元を抑えると、自分で自分がいったダジャレに笑ってみせた。
「どう、どうどう、ふ、ふふふふふ……」
顔から吹き出る汗をタオルで拭きながら、男は後ずさりした。
「こっち入ってきたぞ」
「え?」
あんな小さな生垣の隙間から、どうやって象が入ってこれるっていうんだ。いくら子供の象だからって……。
「よーしよしよし、どうどう、ゾウゾウ……ケケケケケケ……」
不審がるぼくを横目に、男は不気味に笑いながら中腰になると、何かを左手で撫でながら右手で抱え込むゼスチャーを繰り返しながら、岩風呂へと向かった。
「おい、ひょっとして、お前、この象見えないのか?」
男は、ぼくをじろっと見やりながら、岩風呂に足を踏み入れた。
「あっ!」
ぼくは小さく叫んだ。男が浸かる右側の湯舟が、ちょうど大型犬1匹分くらいの面積だけ、お湯が割れてなくなったからだ。
「気持ちいいか、よしよし、どうどうどう、ゾウゾウゾウ」
どうやら男は、子象をお湯に浸からせて大人しくさせておこうという作戦のようだった。
だが、やがて、男は湯舟の中で立ち上がり悲鳴をあげはじめた。
「こら、お風呂の中では動いちゃダメ、わっ、わっ、わーっ!」
男が尻餅を着いた拍子に、中のお湯がみるみるうちに消えていった。
「あれ? 象ちゃん、どこ行った?」
ぼくには見えない、透明な子象もいなくなってしまったらしい。
ぼくと男は、岩風呂の床を見て2人で固まった。
そこには、古代の壁画のような、図形や文字と動物や人間の落書きのようなものが、茶色いチョークみたいなもので細かく描かれていたのである。
それは、いつか本やテレビで見たことのあるナスカの地上絵のようだった。
「ほう、なるほど。ひょっとすると、俺たちがこの露天風呂を脱出するための地図がこれってわけか」
「そんな……」
ぼくは、今の不可思議な状況をまるで普通のことのように話す男に驚いた。
男は、急にぼくの手をにぎると、ぼくをそばに招き寄せていった。
「いいからこっち来い」