連作幻想譚[真夜中にゾウが来る]第7夜


 初出 エブリスタ 2020年2-8月
 連載時タイトル「真夜中のカフェ」加筆改稿

 スマートフォンを開けてみると、だれかからの不在着信があった。
 昨晩のお客様に話をしていたときに、ズボンのポケットの中で振動していたものだ。
 見てみると、おじさんの携帯からだった。
 まさか、海外からの国際電話だろうか。それとも、もう日本に帰国しているのだろうか。
 ぼくは、試しにおじさんに折り返し電話をかけてみた。案の定、おじさんにはつながらなかった。

 7日目。夜9時にお店に着く。
 お店の有線放送のスイッチを入れていると、ドン、ドンとシャッターを叩く音がする。
 シャッターを開けてみると、そこにいたのは、3日目の夜に訪れた大家のおばさんだった。
「どう、元気にしてる?」
 おばさんは開口一番、ぼくの顔を見てそういうと、にやっと笑った。
 ぼくは、これまでの寝ずの番で経験した七転八倒を、余すところなく打ち明けたい気分にかられたが、止めておいた。
「まあボチボチといったところです……」
「でも、あんた、この前会ったときよりも、生き生きした顔になってるわよ」
 おばさんはそういって微笑んだ。
 そして、おばさんはぼくの手に紙袋を渡した。
「まあ、あと1日だけど、頑張ってね」

 おばさんが帰ってから、袋の中身を開けてみると、中には、ドーナツが3個入っていた。
 ありがたい。あとでまかないのコーヒーと一緒にいただこう。

 午後10時。開店。
 この日は不思議なことが起こった。いつもと違い、何組ものお客様が次々とコーヒーを飲みに訪れたのだ。
 最初の1組は、大学生くらいのカップル。間もなく結婚すると話していた。
 次に来店したのは、ビジネスマン風の男の人1人。ノートパソコンを使いながら、コーヒーを黙々と飲む。
 さらに、やけにノリの良い男女6人。陽気にやってきては、陽気に歌を歌いながら帰っていった。
 どのお客様も、みんな幸せそうだった。
 少し気になったのが、若い男性2人。どう見ても、2日目の夜にお店を訪れたドロ人間に姿が瓜二つなのだ。しかし、互いの家庭の話をしては盛り上がっているお客様の様子は善良そのものだった。

 お店は大盛況だ。こんなことって、あるのだろうか。しかも、この1週間で訪れたお客様たちのような、人生の悩みのひとかけらほども見受けられなかった。
 業務上のミスもなく、接客もまずまずで上手くいき、ぼくはほっとしながらも、少し物足りなさを感じていた。
 あのサラリーマンのお客様はあれから大丈夫だろうか。あの初老のお客様は、今は元気にしているだろうか……。

 今夜は、すでに11人ものお客様がお店を訪れていた。
 日曜日だからか? なにかイベントやお祭りの帰りなのだろうか。まるで最後の夜を飾るにふさわしい客足といっても良かった。
 このまま、何事もなく普通に終わるのかな。
 とぼくが寂しく思ったそのとき、お店の玄関の半開きのシャッターを、ドン、ドン、ガシャ、と叩く音がした。

 自動ドアを両手で開け、半開きになったシャッターを少し持ち上げると、そこに立っていたのは、髪の毛をぼさぼさにして、くたびれた表情をしたスーツ姿の男の人だった。
 黒縁のメガネをかけ、面長で彫りの深い顔つきをしている。歳は、おそらく40くらいだろうか。
「すみません。ここ、今お店やってるんですよね?」
 低くかすれた声でお客様は、しっかりと確認するようにぼくの目を見ながらそういった。雰囲気が阿部寛に少し似ている。
「いらっしゃいませ。はい、大丈夫です」
 ぼくも、思わず慎重な口調で答えると、お客様は少し安心したようにうなずきながら、お店の中に入ってきた。

「カフィをくれ」
 メニュープレートを一目見るなり、お客様はそういった。
「カフィ……?」
「知らないのかい。コーヒーはもともとイタリア語でカフィと呼ぶんだよ」
 ちょっと面倒くさいお客様が来たな……とぼくは思った。
 確かに、コーヒーの語源がカフィであることは、おじさんとお店のお客様の会話を聞きかじって知ってはいたが、わざわざ注文のときにいう必要もない。それに、いってしまえばブレンドもブラジルも、エスプレッソもカフェラテも、カプチーノもみんなひっくるめてカフィなのだ。
「大変申し訳ありません……。どの種類のカフィでしょうか?」
 ぼくがお客様に出来るだけ話を合わせながらそう尋ねると、お客様はしばし絶句し、顔を赤らめながら苦悶の表情を見せた。
「すまない……。またどうでもいい知識をひけらかしてしまった。これは私の悪い癖なんだよ」
 そして、お客様は少し寂しげな顔でこういった。
「じゃグァテマラを一杯」

 店内の有線放送は、90年~00年代に流行ったと思われる、一昔前のJポップを中心に流していた。
「君、知ってるかい?」
 お客様はグァテマラを口に運びながら、さっきよりもほころんだ表情でぼくに話しかけた。
「音楽でも演劇でも、小説でも映画でも、人は、自分にとって親しみが持てるものしか好きになれないんだよ」
「だれかそんなことをいっていたのを自分も聞いたことがあります」
 お客様は続けてこういった。
「はっきりいうけど、このカフィは格別だね」

 有線放送でかかった曲が一旦止まったタイミングで、お客様のお腹の音が店内に鳴り響いた。
 決まり悪そうに、お客様はいった。
「申し訳ないけど、なんか食うものないかい? いや、なければいいんだよ。ただ、この時間帯に腹ペコでね……」
 時刻は午前1時。この近くに、コンビニの九時五時があるといいかけたぼくは、おじさんの言葉を思い出した。
「お客様には、どんなときも真心を込めてフレキシブルに……」
 今、カウンターにあるドーナツ3個。分けない手はない。
 ぼくは、口を開いた。
「実はその、ちょうどドーナツがあるんですけど、良かったらご一緒にいかがですか?」
 お客様は目を輝かせた。
「い、いいのかい?」
「は、はい」
 お客様は、大げさに身体を震わせると、こういった。
「君に、神の祝福があるように!」
 なんだか調子がいいなぁ……と思ったぼくは、すぐに、目上のお客様に対して失礼な考えだったと反省し、頭の中でその言葉を打ち消すと、素直に「ありがとうございます」と答えて微笑んだ。
 そのとき、ぼくはふと気がついた。
 この人は……ひょっとして……。

 ドーナツを食べる前のお客様の仕草を見て、ぼくの推理は確信に近づいた。
「これは、旨いドーナツだねぇ~」
 お客様は大げさに目を見開いてぼくを見やると、カウンターの右側を手で差し示した。
「君もこっちに来て座りなよ」
「えっ?」
「君とゆっくり話がしたい」
 お客様は笑っている。その眼差しはとても柔らかだった。
 最後の夜だし、まあいいか……。残ったドーナツの入った袋と、まかないの入ったコーヒーカップを手に持つと、ぼくはカウンターをまわってお客様の隣の席に座った。

 今日は外の風が強いせいか、店内がみしみしと揺れている。
 お客様は、しばらくのうちは、ただ黙ってコーヒーを味わっていた。
 が、やがて、思い切ったように、お客様が突然口を開いた。
「組織っていうのは、結局ナマモノと一緒なんだよな」
「えっ? それは一体、どういうことですか」
「冷蔵庫に入れて保存しても、いつか必ずナマモノは腐るだろ」
 半分に減ったドーナツを、いとおしそうに見つめながら、お客様は話を続ける。
「遅かれ早かれ、人間の組織もいつかは必ず腐敗するのさ」
「といいますと……」
 お客様は、自分の顔をじっと見つめた。
「たとえば、会社とかサークルみたいな組織の中では、自分とは考えが違う人とも付き合わなくてはいけないときもあるだろう?」
 自分から目をそらすと、お客様は顔を真正面に向けた。
「悲しいときにも喜んでいるふりをしなくちゃならないときもあるかも知れないしさぁ……」
 お客様はコーヒーを一口すすった。
「周りからも誤解され、それでも引くに引けなくて、そのまま自分ではない自分を演じつづけなくてはならなくなることもある」
 ぼくは、初日に訪れた、ゾウ人間のお客様の寂しげな表情を思い出した。
 お客様は慌てたように付け加えた。
「これはあくまでも一般論だ。炎上すると怖いからね」
「それは……」
 ぼくは、思わず口を開いた。
「それは……なんだい?」
「それは、家族だって同じじゃないですか」
 一瞬だけ黙りこむと、お客様は答えた。
「そうだよ」

 飛行機の飛んで行く音がやけに大きく店内に響き渡った。
 その音が小さくなってから、お客様は再び口を開いた。
「ここまでは私の意見だ。今度は君の意見を聞かせてくれ」
「自分は……」
 ぼくは、すぐに言葉が浮かばなかった。なんとか、心に浮かんだ言葉を手繰り寄せた。
「好きなものや、親しみがあるものでも、ときには疎遠になることもあるし、はじめは馴染みが薄いものでも、それを好きになったら自然に親しみが湧いてくるものだと思います」
 お客様は、ただ黙ってじっとぼくの目を見据えている。
「家族でも友達でも、出会って仲良くなる中で、相手のある部分が苦手になったり、逆に相手に自分の欠点を見つけられたり……。
 そうこうしているうちに、また仲直りして、お互いに仲良くなっていくんじゃないですかね」
「それが君の組織論か。うん。いいね。それも、確かに一理、あるモガね……」
 お客様は口にドーナツをほおばりすぎて、まるでクルミをほおぶくろに入れたリスのようになっていった。
 一応いってはみたものの、組織論といえるほどのものか分からない。考えが煮詰まりきれておらず、自分でも確証の持てないものだった。

 ぼくはお客様に尋ねた。
「お客様は、ひょっとして牧師か神父じゃないですか?」
 するとお客様は、黙って自分の顔を見つめた。
 そのとき、スマートフォンの振動音がズボンのポケットから響いた。
「電話出ていいよ。外で話してくれ……」
 それでぼくは、一旦シャッターをくぐると、お店の外に出ようとした……けど、出られなかった。
 お店のすぐ目の前に見えるのは、今まで見たことのないほどの大きな、大きな月だった。
 なんとお店は、地上から遥かかなたの夜空を浮かんでいたのである。

 ぼくは、黙って外の景色を眺めながらスマートフォンを耳に当てた。
 その声は、おじさんだった。
「おじさん……」
「これから飛行機に乗るところなんだ。また着いたら連絡するよ」
 おじさんの声は、自分が子供の頃から全く変わっていない親しみのある声だ。
「元気な声が聞けて安心したよ。ではまた」

 それにしても、エンジンもついてないのに、うちのカフェはどうやって空に浮かんでいるのだろう。
 それより、この状況をお客様に知られないようにしなくては……。でないと、また面倒なことになる。
 そう思ったぼくが後ろを振り向くと、目の前にお客様がいた。
「君。なんで俺が牧師だと分かったんだい?」
「食前に、手を組んで祈る仕草を……」
「それだけか」
 少し寂しそうな顔をして、お客様はぼくの顔を見た。
「あとは、なんとなくですけど」
「そうか……」
   カフェの入り口から地上を見下ろしてみた。街の明かりが小さく見える。
「あの、実は自分も一応クリスチャンなんですけど……」
 ぼくは、お客様にいった。
「クリスチャンって、地の塩っていわれてますよね。要はこの世界の腐敗を食い止める働きを担っていると……」
「まあね」
 お客様は、その場にしゃがみこんだ。
「だれであろうが、人間の力だけでは無理なんだよ」
「でも……」
 ぼくは、話をつづけた。
「担われていると……」
「うん」

 お客様は、お店のソファで寝入ってしまった。カフェは相変わらず、ぽつんと空を浮いている。
 ぼくは、急に、夜空を歩いてみたい衝動にかられた。今ならいけるんじゃないか。カフェが浮いている、今なら……。

 思いきって外に出てみると、夜空を普通に歩くことができた。
 真上を見ると、数えきれないほどの星の光があたりに散らばっている。博物館のプラネタリウムを思い出す。
 今度は下を見る。ぼくは我が目を疑った。
 望遠鏡で見るみたいに、地上の景色が見える。地上の街は、今まさに朝になるところだった。上空は未だに夜中なのに。一体どうなっているのだろう。
 多くの人たちが横断歩道を渡っている。その中に、なんと自分の姿も見える。自分は、周りの目を気にしていたり、逆に、場所によっては全く周りを気にしないであくびをしたりしている。
 自分自身をまさしく俯瞰で見るのは初めてのことだった。

 自分の姿は、家や建物の中も透視してはっきりと見える。
 豆粒ほどの自分を目で追いながら、ぼくはなんともいえない気まずい気持ちになった。

 ぼくは視線を左下にずらした。今度は、ありふれたオフィスにいる大柄なサラリーマンが目に入る。
 なんとその人は、あの初日に来店されたゾウ人間のお客様だった。
 お客様は、ハンカチで汗を拭いながら、にこやかな表情で挨拶したかと思えば、慌てたように電話をかけながらペコペコと頭を下げている。
 ぼくが、今度は右下に視線を変えると、それぞれ帽子を被った若い男女が、小さな子供を連れて歩いているのが見えた。
 その親子連れは、悩み事なんかひとかけらもないような顔をして、仲良さげに話しながら道を歩いていた。

 その近くの公園に、ボサボサの頭を抱えた1人の男が、なにやらうめいているのが見える。
 ぼくが顔を近づけてよく見ると、それは、なんと今晩お店を訪れている阿部寛似のお客様だ。
 お客様は、しっかりと目をつぶり、何度も頭を揺らしながら、しきりにこうつぶやいていた。
「なんということだ。なんということだ。なんということだ……」

 ぼくは顔をあげた。それから、今晩お店を訪れたお客様たちのことを思い返した。

 ぼくがお店に戻ると、お客様はいつの間にか、2日目のお客様が置いていったカーディガンを羽織りながら、ソファで本を読んでいた。
 お客様は、体をのけぞらせながら、わざとらしく満面の笑みを浮かべた。ある意味、喜怒哀楽がここまで分かりやすい人は逆に異常かも知れない。
「ドーナツ、もう1つあるんですけど、半分こにしていただきますか?」
 お客様のパフォーマンスを無視してぼくが提案すると、お客様は、「ブラボー!」といって手を叩いた。
「いや〜、さっきはなんか、突然ネガティブな話題をぶっこんでしまって悪かったね。これは私の良くない癖なんだよ」
 お客様は、目をこすりながらそういった。
「でも君に話したら、かなりスッキリした。話しただけでもスッキリするもんだね。グァテマラのおかわりを頼む」

 ドーナツを分け合って食べながら、おもむろに、お客様はサインペンを取り出すと、ナプキンになにかを書きはじめた。
 横線と、その上に「law」という文字が踊っている。
「知ってるかい? 英語の“law”は、“法律”とか“法則”っていう意味だけど、もともとは“神が置く”っていう意味なんだ」
 お客様は、食べかけのドーナツをそのナプキンの上に置いた。
「法則っていうのは、その法則を考案した者の手中にある。科学とか道徳とかは、ある意味人が定義したものだけど……」
 欠けたドーナツを持ちあげると、お客様は勢いよく口にほおり込んだ。
「その大元である法則は、全て神が考案し、モガ創造したものだ。だから、神にはそれをねじ曲げたり、飛び越えたりする権利と自由がある」
 お客様は、コーヒーを飲んで一息ついた。
「それを人は奇跡と呼ぶ。腐ったものが元に戻ることもあり得るし、腐らせないでそのまま保つことができるのも、いわば奇跡といえるだろう」
 お客様の目は涙目だ。
「あやうくドーナツを喉につまらせるところだったよ……」
 ぼくは思わず、相手がお客様であることも忘れて吹き出した。お客様も、それに対抗するように、メガネを外し、涙を流しながらさらに大きな笑い声をあげた。

 時刻は午前3時半。間もなく夜が明ける。
「牧師に必要な資質はね……」
 お客様は自分に言い聞かせるように話をつづけた。
「スーパーマンになることでも、神に成り代わることでもない。
 目の前にいる人を大事に思って、その人のことをよく知ろうとすることだよ」
 お客様の目は、怖いほど鋭い。
「神が、自分のひとり子を犠牲にしたほどまでに愛している、隣にいる人を自分のように愛することだよ」
 そしてお客様は、目をつぶって、「なんということだ……」とうめいた。
 そして、だれにともなくいった。
「赦してくれ……」

 ぼくは、それを見たとたん、ある夢のことを突然思い出した。
 それは、亡くなったはずの犬のハッピーが、おばあちゃんの家の玄関の外に、ちょこんと座って、自分を見ながら、ちぎれんばかりに尻尾を振っている夢だ。
 死んだはずのハッピーが生き返ってぼくに喜びの姿を見せる夢だった。
 ぼくはその夢を見たときに、感激のあまり声をあげて、自分の声で目を覚ましたのだった。


 おじさんと再会したのは、それから2日後の水曜日のことである。
 どういうわけか、指定された場所はとある大手チェーンのカフェだ。自分のお店のライバル店という認識はおじさんにはないらしい。
 お店に着くと、おじさんは髭をぼうぼうに生やしたロビンソン・クルーソーのような雰囲気になっていた。アロハシャツとジーパンという出で立ちで、服装も海外渡航前とまるで様変わりしている。
「韓国を経由して、イスラエルとかフィリピンまで足早に立ち寄ってきたんだよ」
 おじさんは昔から旅好きだった。
 旅の目的を打ち明ける代わりに、おじさんは、旅行用のスーツケースとリュックサックの中から、いくつものお土産の品を取り出しながらぼくに尋ねた。
「どうだったかい? 務めは」
 おじさんに聞かれ、ぼくは一拍置いてから返事をした。
「色々あったんですけど、とても良い社会勉強をすることができました」
「うん、それなら良かった」
 そして、おじさんは、お店を地方の町に移転することにしたとぼくに告げた。
「来月の頭には引っ越し完了の予定だ。お店の再開にはだいぶ時間を要する」
「ずいぶん急ですねぇ……」
 ぼくの言葉に、おじさんはにやっと笑った。
「移転は留守の前から決めてたんだ。そうでもなきゃ、社会人経験のない君に自分のお店を任せることなんかしないよ」
「確かに……」

 引っ越し手伝いのアルバイトを引き受けることになり、日程を調整してからお土産の品を受け取ると、ぼくはおじさんと一旦別れた。今度会うのは1週間後の金曜日、そのときはおばさんも一緒だ。
 今度のアルバイトは交通費と謝礼金付きだ。これで、たまには父と母に親孝行ができるだろう。あるいは友達にも。

 帰りの電車の中で、ぼくは夜番最後のお客様の言葉を思い返していた。
 向かいの座席に座っているお兄さんの手のひらから、スマートフォンがパタンとこぼれ落ちた。
 お兄さんは酔っ払って寝ている。どうしよう。
 すると、ベビーカーを手にしてお兄さんのすぐそばに立っていた20代くらいの女の人が、その落ちたスマートフォンを持ちあげて自分を見た。
 ぼくは立ち上がると、その酔っ払ったお兄さんの肩をとん、とんと叩いて声をかけた。
「すみません、スマホ、落ちましたよ」
 間髪入れずに、女の人が、スマートフォンをお兄さんに手渡す。
「あ、すいません」
 お兄さんは、顔をあげると女の人と自分に対してお礼をいった。
 ちょうどそのタイミングで電車が乗り換え駅に着く。
 自分と一緒に手伝ってくれたその見知らぬ女の人は、ぼくの顔を見ると、にっこりと笑いながら軽くうなずいた。
 ぼくも、それを見て、思わず同じようににっこりと笑って軽くうなずくと、そのまま電車を降りた。

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「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」ヨハネの福音書16章33節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

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おわり

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