空想短編小説:真夜中の温泉5
「あれ……お、おい、君。ちょっと……」
タオルを腰に巻いたまま、男は何度も開閉式のドアを開こうとしてバタバタともがいた。
「おい、なんだこれ、開かないぞ」
「開かない?」
ぼくは、風呂からあがると、男のいる露天風呂の出入り口に向かった。
「なんだ、なんだ……やっとサウナに行こうというときに」
男は眉間にしわを寄せ、まるで青汁を何杯も飲んだみたいな苦い表情をしてうめいた。
「旅館の人が来てくれるまで待ちましょう。そんなことより、アルマジロの話はどうなったんです。トラウマとは」
「アルマジロだとぉ……?」
男は、まるでぼくを獣か野蛮人であるかのように見て顔をしかめながら、狼か野犬のように唸った。
「アルマジロなんてどうでもいい。この温泉に来た1番の目的はサウナだ」
「いや、あなたのいっていることはおかしい。順番があべこべでしょう」
内心、自分でいっていることも微妙におかしいことにぼくはすぐ気づいたが、それでもこの男よりは正しいと確信して続けた。
「なぜあなたにとって、大草原にアルマジロが戯れるイメージが、トラウマに結びつくんですか。教えてください」
「君は私の先生か? カウンセラーか? 今の私にとって、アルマジロのことよりもサウナだよ」
そのとき、夜空に突然、まるで野獣の雄叫びみたいに、耳をつんざく大きな声がこだました。
ふたりとも、ドアから離れ、しばし、黙って立ちすくんだ。
やがて男は、振り絞るようなか細い声をあげて、話しはじめた。
「俺は作家だ。色々な小学校で講演会を開くほどの大物作家なんだ」
自分で自分のことを本気で大物と呼ぶ人間に大物はいない。少なくとも、今目の前にいるこの男は、雑魚そのものだ。
自分は男の真剣な眼差しを真っ直ぐに見ながら、そう感じた。そう、そして、そんな汚いことを無意識のうちに感じてしまう、自分の心も……。
「ある小学校に招かれたときのことだ。先生がみんなの好きな動物について生徒に尋ねた。子供たちは思い思いの動物たちの絵を描いて俺に見せてくれた……」
男は、遠い空の彼方を見るかのように、目を細めると、ふっと息を吐いた。
「俺は、みんなにこういったんだ。『私の好きな動物はアルマジロです』と」
わなわなと震える拳をおでこに当てながら、男は声を一オクターブあげて叫ぶようにいった。
「誰ひとり笑わなかった。ぴくりとも。そして先生も含めて、俺のアルマジロの話を無視して、すぐさま別の話題に変えたんだ」
ぼくは、あまりの内容に、口を開いたまま、呆れて声をあげることができなかった。
「それもホッキョクグマの話に。地球温暖化の話と絡めてだ。アルマジロは消えてしまったんだ。大草原の彼方に……」
「しょぼい。しょぼすぎる……」
ぼくは、込み上げてくる得体の知れない感情を必死に堪えながら男にいった。
「随分と、随分としょうもない、ちっぽけなことで傷ついたんですね」
男はすぐさま、威嚇するようにぼくに向かって叫んだ。
「このハゲ坊主よ。お前に何が分かる!」
「確かに自分はスキンヘッドですが、ハゲ坊主のほうが普通はトラウマですよ」
「トラウマに大きいも小さいもない!」
男は身体が冷えてきたのか、また風呂の中に入りながらつぶやいた。
「でも、今はそんなことよりサウナだ……」