エッセイ ナンセンスの意味

イントロダクション

 私は、子供の頃から面白い話が好きだった。いろんな絵本、童話、児童文学、小説、マンガ、アニメ、映画、テレビ、ラジオなどにふれ、自分でも幼いときから自分なりに面白いと思うものを作ろうとしてきた。
 私はどちらかというと、シリアスなものよりも笑いが入った作品が好きで、さらにナンセンス、シュールといわれる荒唐無稽なものが好きだ。
 自分もそんな作品を作ってきた。たとえば、自分のことをカカシだと思いこんで半世紀を過ごしたおじいさんとある家族の交流を描いた「おじいさんの一生はカカシ」、イナリズシがたまらなく好きなおばあさんが自分の命よりもイナリズシを選ぶ「イナリズシ・クリスマス」、ダイエットに失敗した少年が肥満を肯定する「デブ太郎の問題」……。振り返ると、自分が子供のとき思いついたお話は、内容がメチャクチャで、腑に落ちない内容のものが多くある。
 だが、2012年3月10日、私は主イエス・キリストの十字架と復活を個人的に受け入れ、23歳の時、洗礼を受けてから、自分が面白いと思うポイントが徐々に変わってきている。

「人間の業の肯定」の必要性と限界

 私が書いてきた作品の特徴として「人間の業の肯定」があった。
 「イナリズシ・クリスマス」は、イナリズシ中毒という架空の病気にかかったおばあさん・エミリーが、医者や愛する孫の忠告を聞かず、イナリズシを盗み食いして死期を早めるという、非常にばかばかしく、一見救いようのない物語である。しかもそうした内容を、おばあさんの心情を美化しハートウォーミングなタッチで描いている。クライマックスでは、おばあさんはこうつぶやく。
〈「イナリズシ食べないで長生きするより、イナリ食べて死ぬほうがどんなに幸せか……」〉
 イナリズシ自体は本来悪い食品ではないが、おばあさんのこうしたイナリズシに対する愛情と執着は常軌を逸しており、このおばあさんのセリフはイナリズシに対する献身表明といっても過言ではない。

 自分を犠牲にしてまでもほかのなにかを守り大事にするという姿勢は、その対象となるものがどんなものであっても、多くの人の胸を打つことがある。
 しかし、その対象を間違えると、それは滅びに至る。酒やたばこ、恋、異性、ドラッグなどに依存する人は、このおばあさんのようにそれらに固執し続けるなら、誤解を恐れずにいえばその行き着く先は死である。
 一方、自制して、自分の時間や努力を惜しまず練習に励み、大会でその結実を示すスポーツ選手は称賛の的となる。
 前者と後者の違いはどこにあるのだろうか。一つには、自己の楽しみを追及する前者と、他者の喜びを追及する後者の違いということになるだろう。もちろん後者も、自らの名誉や欲を優先させるならすぐ前者になるリスクを持っている。

 子供の頃は、特にテーマを意識せず、面白いと思ったものを思いつくままに書いていただけなので、「イナリズシ・クリスマス」に深い思想性があるわけではない。だが、「デブ太郎の問題」という絵本になると、当時の自分が無意識に抱いていた人生観がさらに如実なものとなって表れている。この作品の主人公・デブ太郎は、ダイエットにことごとく失敗して太り、「デブでなにが悪い」と開き直って暴飲暴食をする。よくある話ではあるが、ラストでは、大人になった主人公が自転車屋をしていて、みんなから「デブオヤジ」と呼ばれ親しまれているというオチになっていた。
 この作品に特定の人を差別する意図はないが、この作品は「イナリズシ…」のテーマをさらに希望的観測で深めたものといえる。先に記した「人間の業の肯定」とは、もとは立川談志が提唱した落語の定義である。「ドラえもん」はこの人間観に基づいて描いた作品だと藤子・F・不二雄は書いていた。これを、好意的に捉えるなら、「あなたはありのままで大丈夫」という励ましのメッセージになる。しかし、ただこれだけでは、救いには至らない。
 ありのままの自分や他者をいったん受容することは人が生きる上で極めて重要なことだが、そこだけでとどまり、すべての人がありのまま生きようとするなら、この社会は無法地帯となるだろう。なぜなら、「人間の業≒原罪」の解決策がそこには欠落しているからだ。
 自分のために、他人をも犠牲にする姿は、醜態以外のなにものでもない。自分の命すら、自分のものではないことに気づかなければ、「イナリズシ…」のおばあさんの姿は美化されて捉えられかねないが、それは献身の対象が誤りである。
 自分が神様に愛されて造られた存在であり、神様から背を向けている状態が罪であり、神のひとり子であるイエス様の十字架が、自分の罪の身代わりの苦しみだったことを知って、その事実をイエス様の復活の事実とともに受け入れたとき、初めてありのままの自分をありのままで愛することができる。そして、ありのままの他人をもありのまま愛そうと努めることが可能になるのではないだろうか。

「だれも知らない森の靴屋」について

「だれも知らない森の靴屋」は、13歳のときに構想をはじめ、いろいろあって28歳のときに大筋が完成した。
 この物語は、「自分にしかつくれない靴」を作ることにこだわるおじさんが、借金苦と体調不良から夜逃げをし、ある森の中に迷い込む話である。その森で靴屋を開いたおじさんは、両親に捨てられた少年とだれも買いに来ない変な靴を作り続ける。そんな森に迷い込んでしまったおばあさんが、その靴屋を訪れ、おじさんの売る変な靴に振り回されるはめになる。
 当初は、おばあさんが靴を買ってもとの世界に戻り、おじさんと少年はそのまま森にとどまるという設定だった。その後、おじさんたちも森を出て、現実の世界でおばあさんと再会する部分を追加したが、なぜおじさんが森を出ることを決めたかの経緯があいまいになっていて、2013年頃「森の海」というエピソードを追加した。
 さらに、2017年3月、イスラエル旅行に行った実体験に基づく「エピローグ」を書き下ろし、おじさんたちとおばあさんの再会シーンを新たに書き直すことができた。

「森の海」の意味

作中、おじさんの迷い込んだ森は「森の森」となっているが、この場所は人間の深層心理を象徴しており、いわば心を閉ざしたおじさんの内面の変化を描くことがこの物語の主軸となっている。
 この森は物語終盤で「森の海」であることが明らかとなり、それまで伏線のように登場していた海の生き物がクライマックスでは大量に出現し、森の中は大水でおおわれる。この「森の海」の設定は、自殺の名所として知られる富士の樹海の暗喩ともなっており、おじさんが生きるか死ぬかの瀬戸際がここでは描かれている。

 おじさんが生きることを選択する大きなきっかけを作ったのが、森に迷い込んだおばあさんである。
 このおばあさんは、おじさんの作る靴をことごとく否定し、おじさんの話にはお茶を飲みながら喜んで聞いている。おじさんの価値観を否定しながら、おじさんの存在は肯定し、受容する。
 やがておじさんは心を開き、おかしな靴を作るようになった経緯を明かす。それは、質の良い靴を作りながら家族のことを顧みなかった父親に対する恨みと復讐心によるものだった。
 そのとき、靴見習いの少年の飼っているペットの魚が、おじさんの罪を簡潔に提示する。それは「親は子の鑑」ということわざだった。おじさんも、人のことを顧みないで、靴を作り続けていたのだ。

「木」の意味

 「森の海」の章では、暗い水の中を、唯一光が照らしている「木」が提示される。ここで提示される人の影が、イエス様の十字架の象徴となり、おじさんは、生きるために水の中に飛び込むことを迫られることになる。
 ここで自分が描きたかったことは、「捨てることによって得る」という、聖書のメッセージだ。自分がこれまでこだわってきた靴職人としてのプライド、生ぬるい生活、作ってきた靴……。それらすべてを手放して捨てることを、少年によっておじさんは迫られる。
 少年はおじさんを残してまず先に水の中に飛び込むのだが、その理由として「お父さん、お母さん、みんなとずっと仲良く一緒に暮らしたい」という。
 少年の父親と母親は少年を捨てた張本人であり、少年を不幸にした恨みの相手だ。少年は、その両親を赦すことを宣言し、永遠の絆を得るためにおじさんとの一時の別れを選択する。この場面は、受洗直前に観た映画「奇跡のシンフォニー」(2011)から着想を得たものだが、自分の受洗当時の心境や、聖霊なる神様から示され続けているメッセージが反映されている。

捨てることで得る〜ナンセンスの意味

 本当に大切ななにかを得るために、自分にとって大切ななにかを捨てることが「だれも知らない森の靴屋」のメインテーマとなっている。「イナリズシ・クリスマス」や「デブ太郎の問題」の頃と比べ確実に作風の変化が感じられる。というよりも、「だれも知らない森の靴屋」は、迷路にはまって動けなくなっていた自分自身が、迷路の「出口」を明確に提示できた最初の作品かもしれない。
 小学1年生の終わりから学校に行けなくなり、飼い犬と遊び、本やテレビ、映画などを楽しんで過ごし、フリースクールでは人を笑わせることばかり考えて、将来のことなどほとんどなにも考えずに、子供・青年時代を生きてきた。
 「ナンセンス」は、本来は意味のないばかばかしいことという意味で使われる一方、芸術・文化の分野では「ナンセンス文学」「ナンセンスギャグ」というように、既成の常識や枠組みから自由になった、ひいては人間の生き方の根本を模索するジャンルとして広く知られている。
 ナンセンスの意味は、神様から愛されているその無限の「愛」を知り、受け入れたとき、初めて理解できるものではないかと思われる。
 「だれも知らない森の靴屋」にはまだ技巧・表現面で改良の余地があるものの、ここには自分が幼い頃から一貫して求めてきた「面白さ・楽しさ・感動」のひとつの帰結がある。本作の主題はⅡコリント4:18に集約される。

「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(聖書 新改訳2017)

 「言うは易く行うは難し」というが、洗礼から7年目(※)になる今も、このテーマは大きな課題になっている。それは人間の力ではできない。キリストの勝利のみわざによる救いの確信をこれからも感謝して受け取り続けていきたい。

 [了]2018.3.11(一部改稿)※現在は14年目

 初出 エブリスタ「だれも知らない森のくつ屋」スター特典を部分的に改稿しました。

 筆者コメント 今から7年前に書いた文です。友人知人や家族に読んでもらいましたが、(一部をのぞいて)さほど反響はありませんでした。確かに、デビューもせず売れてもいない自作の解説をここまで書くとは、野暮の極み、ナルシズムの極みといっても過言ではないでしょう(涙)一応内容はまとまっているので、旧作としてnoteにも掲載させていただきました。

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