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斉藤洋イェーデシュタット物語を読む④
「オイレ夫人の深夜画廊」では、題名と同じ名前の書店(1階は古本屋で2階は画廊)が重要な役割を果たします。
フランツは、大学をうつるためミュンヘンに行く最中、足止めを食らい、夜にイェーデシュタット中央駅へ下車し、時間を潰すためにジークムント・ホテルから深夜画廊を訪れます。
「あ、いえ。とくにさがしている本があるのではないのです。奇妙な、あ、奇妙っていうか、ちょっと変わった書店があるって、そう聞いたものですから……。」
いくらかしどろもどろになりながら、フランツが答えると、女性は、
「たしかに奇妙かもしれません。」
といってから、
「それで、どちらからいらしたのです。」
ときいた。
このフランツという青年は、この深夜画廊で、小さい頃に近所でよくしてもらった、建設材を扱うお店のおじさん・グライリッヒさんのことを、ちょっとしたことから思い出します。
それだけではなく、グライリッヒさんが戦争に行って亡くなる前に、プレゼントした木材のライオンをその場で見つけるのです。
本作は、内容はシンプルですが、前2作と比べて、ジブリアニメでいうなら、「となりのトトロ」と「君たちはどう生きるか」のギャップというか、話の展開の唐突さが際立つ感じがあり、そこが斉藤洋の深化でもあり、魅力ともなっています(※斉藤洋は、盟友の高畠純に倣い、敬称略を好まれることが知られているため、時折あえてそうしてみています)
さらに、伝えたいテーマと物語がストレートにつながって描かれているため、読後にモヤモヤとか消化不良は全く感じさせません。
中でも私が特に印象的だったのは、「ふたりの少女」という章です。
知らない少女たちのおしゃべりを、たまたま居合わせたフランツが市電の停留所で聞くというシチュエーションで、作者は、「異性の気持ちはわからない」という話題を、なぜか出てくるシロクマをたとえにいきなり描いています。
「どうせ考えたってわからないんだから、奇妙だと感じても、まあ、そういうことなんだって、そう思うしかないのよ。」
斉藤洋作品には、ファンタジーや怪談といった、不思議な話が沢山ありますが、そのときに主人公のリアクションがわりかし淡々としているというか、「わーっ!」と驚いたり、怖がる描写が少ないものがけっこうあります。
それは、著者の生い立ちや考え方にも理由があるのかもしれません。斉藤さん自身、こんなこともいっています。
「不思議なことを、さして不思議と思わないのは、子どものころの環境のせいかもしれません。」
「童話作家になる方法」では、こうも書いています。
〈不思議な体験をしたから幽霊はいる。〉にはならないし、〈不思議な体験をしていないから幽霊はいない。〉にもならない。
私はこれまでに、何度も不思議な体験をした。だからといって、幽霊がいるとは思えないし、幽霊はいないと思っていても、不思議な体験をしたことは否定できない。
「太陽が昇るように私はキリスト教を信じる」という、C・S・ルイスの言葉が思い浮かびます。目や鼻の数。空気。ぬくもり。なにかを信じたからといって、謎や疑問は尽きることもなくなることもありません。
さて、斉藤洋さんは、「童話作家になる方法」で、イェーデシュタットはドイツ語のJede Stadtをひとつづりにしたもので、その意味はEvery cityと明かされています。
私は英語が得意ではないので、調べたらこれは「都市」ということでした。つまり、イェーデシュタットはみんなの街ということでしょうか。
……何かヒントにめぐりあって、イェーデシュタットにふさわしい着想を得たら、四作目を書くのではなかろうか。
個人的な「私」の思いと「みんな」の思いとがつながっていく、斉藤洋イェーデシュタット物語の続きの作品が楽しみでなりません。つづく?(とりあえずおわり)