上馬さんこんにちは⑥
【今日の聖書】
— 上馬キリスト教会 (@kamiumach) January 26, 2019
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
伝道者の書 7:3 pic.twitter.com/7c9R2ia4u6
#あなたのモテ期はいつ来るのか
— 上馬キリスト教会 (@kamiumach) September 3, 2019
みなさん、そんなものは来ないですよ
結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。Iコリント7:8
私はクリスチャンホームに生まれ育ちました。
23歳のときに、自分の中の原罪を自覚して、イエス様にすべてをお任せして洗礼を受けました。
洗礼(バプテスマ)とは、ざっくりいうと「イエス様を自分の救い主と認め信じます」ということを神と人の前に公に宣言する式のことです。
その後、家族や友達をキリスト教の集会や教会のイベント・礼拝に誘ったり、自分なりに証や福音を伝えようとしてきました。
また、古い知り合いともつながりが持てるFacebook(FB)を使いはじめ、通算11年半続けています。
教会では、青年グループのサブリーダーを任されたのち、やがて新しいチームのリーダーに昇格しました。
そこで、社会問題やサブカルを聖書の視点から話し合うというコンセプトを採用してスタートしたのも束の間、思い返してもリーダーとしての資質に欠けるところが多く、コンセプトのリニューアルを迫られ、さらにメンバーから苦情が相次いで4ヶ月で解散、別のチームのサブリーダーに降格となったのです(これが6年前の小さな挫折でした)
一方、それと重なる時期に、どういうわけか教会でよしもと新喜劇のパロディを上演することになり、私もヒール役で参加することになります。
そこで、何を言っているのかよく分からないチンピラの親分役が大当たりして、教会は爆笑の渦に包まれたのです。
この体験が、お笑いはチームプレーであることを肌で実感する、6年前の小さな成功でしたが、そのとき私は、お笑いを通じてイエス様を伝えることに初めて手応えを感じました。
私がそのときいった具体的なセリフは、「イエスさんはいわはった……『おはよう』」と「ワイは、イエスさんにゆるされたから、おまはんのこともゆるす」です(どちらもエセ関西弁で話す)
当時、脚本を書いた某兄弟は相当お笑い好きなクリスチャンでした。
その新喜劇から約1年後、コロナ禍になり、なかなか会えない友達も増えたことから、FBでお笑いをやろうとやりはじめます。
ところが、「説明と省略があべこべ」「突き抜けていない」「意味不明」などの批判に晒され、ある友達とは4時間も長文のLINEで意見交換をするほど当初は難航を強いられました。
そんな中、お笑いで独自路線を走り続ける上馬さんの働きは、私にとって良い刺激になると同時に、「自分はまた違った形で面白いことをやりたい」との思いを一層強くし、さまざまな試行錯誤を繰り返して今に至っています。
そんなわけで、子供の頃から面白いことが好きで、絵本を作ったり、マンガを描いたり、作文や童話を書いて身近な人を笑わせることが好きだった私は、色々長短あるものの、上馬さんの等身大の活動を擁護・支持しない訳にはいかなかったのです。
しかし私は、職場や教会の人を意図的に笑わせたことは今まで皆無といっていいと思います。
FBでもスベり続け、私と同レベルで上馬さんを推す知り合いも身近にほとんどいない現状の中、上馬さんに見習いたいことをリストアップして行こうと思います。
まず最初は、
・上馬さんは打たれ強い
ということです。
上馬さんのXは、日々さまざまな意見に晒されています。
以下は、そのごく一部(日時順不同)です(信者・未信者は問わない)
上馬教会(プロテスタント)のアカウント、教会の人(クリスチャン)がツイートしてるけど、炎上するとかの問題通り越しててもうなんか笑っちゃう、好き。笑@kamiumach
— natsumi (@nxx__tt) March 24, 2018
上馬キリスト教会のスタンスは本を見れば明らかなように「よく知らないが言いたいことは言わせてもらう」ということらしいが、今回はSNSで「政治のことはよくわからないが、鯨を食べられるようになるのは嬉しい」と書いてた。
— ぼやき牧師|富田正樹†🏳️🌈🏳️⚧️ (@ichurch_me) December 30, 2018
無知を言い訳に言いたいことを言うってのはどうなのか。
日本のキリスト教界が、上馬キリスト教会を「大して面白くないふざけ担当と大して詳しくないまじめ担当がデリカシーもリテラシーもない中人気アカウント目指して頑張って背伸びしてるんやな」ぐらいの目線で遠目から可愛がって見られるような知的水準にまでなれば、まだ希望あるのにね。
— ケン・フォーセット Ken Fawcett†🏳️🌈🏳️⚧️ (@kenfawcjp) March 9, 2021
上馬さんのツィートが皆さんの怒りを買っているようだ。あえて弁護するなら、彼らは未信者の関心を引くためにわざと冒涜スレスレの表現をしている。熱心な信徒の皆さんには許せないかもしれないが、私は伝道の一つ手段として許容してもよいと思う。 https://t.co/K10NcfxwtS
— ヤコブのはしご(福音垢) (@yakobu1946) April 19, 2019
自分の知らないところで、すごい努力されて、大量のクソリプ、批判ツイートにもめげないで、睡眠時間も削って、やっておられるんだろうなぁ、と。
— まろたん for Christ (@marotan1026JC) December 8, 2018
同じことができないわけだから、安易に叩いてはいけないと思ってる。
が、かく言う自分も最初は、上馬さんはちょっと距離を置いていたんだけどね。
ではここで、作家としても活動される、まじめ担当・MAROさんの単著から少し引用します。
実は僕は生まれつき脳性麻痺で脚が不自由です。今は生活にステッキが欠かせません。が、まだ若くて元気でステッキも要らなかった中学生の頃、どうしてもかっこいいな、と思って剣道を始めました。周りのクラスメイトからは「お前にできるわけない」とからかわれたりしました。僕の本名は「たけひこ」というのですが、その時にそれをもじって蔑称として呼ばれたのが「たけまろ」という弱そうな名前でした。その時は悔しくて悔しくて、とにかく人一倍の稽古をしました。今思えばその悔しさが一つの強力な原動力でした。
MARO、だいわ文庫、2022年、216ページより
ゆるいツイートとは裏腹に、中の人の意外な一面を読み、私は目に見えるところだけで分かるのはごく一部だとあらためて感じました。
ふざけ担当のLEONさんも、ある対談で次のような思いを語っておられます。
渡辺 僕個人としては、ノンクリスチャンへ向けて発信しているということもあるのですが、もう一つ、「クリスチャン二世の心の痛みに寄り添いたい」という思いもあります。僕も牧師の息子として育って、教会があるのが普通でした。「地球が丸い」とみんな普通に知っているのと同じように、神様を信じていました。でも、小中学校の時に「僕、教会に行ってるんだ」と言うと、「えっ?」と驚かれる。これって、結構きついんですよ。でも、僕らが面白いことをツィートして、ノンクリスチャンから逆に「二世」にリツイートで回ってくるという流れは、とてもいいと思うんですよ。
2018年12月25日、Kirishin
確固たる芯とビジョンを握っているからこそ、上馬さんはたとえ外野からどれだけ色々なことをいわれたとしても、10年近くも平常運転を続けることができるのかもしれません。
「自分の弱さを誇る」
私も最近、職場で「鋼のメンタルだね」といわれたのですが、上馬さんの弱さを強さに変える姿勢は親近感を覚えると同時に、自分もより一層見習いたいクリスチャンとしての態度のひとつです。
・・・つづく