上馬さんこんにちは⑦
上馬さんに見習いたいことをどんどん取り上げていきます。
次に紹介させていただきたいのは
・上馬さんは敵をも愛している
というものです。
上馬さんのXでのポストや本、Web媒体でのインタビュー記事などをいくつも読んできましたが、そこでたびたび強調されるのは、上馬さんのあまりにものびのびとした寛容な姿勢です。
まじめ担当のMAROさんは、著書でこう語っています。
私自身、クリスチャンになってからも、さまざまな出会いや失敗(クリスチャン的にいうならば「砕かれる」)体験を重ね、信じることや伝道についての考えが少しずつ変えられていきました。
その中には、自分から意識して変えたところもあれば、自然に変えられたところもあります。ただ、人から「変われ」といわれてすぐに変われたことは、恐らく一度もなかったように思われます。
MAROさんが指摘されているポイントは、自分自身を踏まえた上でも納得できるものでした。
さらに、上馬さんは、聖書を伝えるだけではなく聖書を実践しているのだなと感じさせられる点が、いわゆる他宗教の人、ノンクリスチャン、さらに他教会のクリスチャンなどに対する接し方なのです。
ふざけ担当のLEONさんの発言を引用します。
※バランスをとるために併記しています。
さらに、別のインタビューではこんなことも話されています。
お笑いは、相互の信頼関係とリスペクトの上に成り立つという常識を踏まえた上で、上馬さんはふざけたことをしていることがよく分かります。
それでも、長い歴史の中では、「教会冗句」での意図しない差別表現を謝罪されたり、すべった投稿(受けた投稿さえも)を消すなどのこともされているようです。
上の動画では、すべることを恐れない(ように見える)ふざけ担当の方の貴重なインタビューを拝見することができます(隣で聞いているまじめ担当の方は、なんともいえない表情でしたが…)
今回は、最後に私が思っている素朴な仮説を書いて締めたいと思います。
ときどき、上馬さんはいわゆる聖書イジり、神イジりといわれるお笑いがときにクリスチャン界隈から顰蹙を買っている印象を受けます。
ここからは、私の全くの仮説なのですが、上馬さんは、ノンクリスチャン、いわば神を信じない人、神を恐れぬ人たちの神イジり(冒涜)に対して、「敵を愛する」という聖書的観点からひとつのアンサーを突きつけているのではないかと思うのです。
「俺たちの神はそんな冒涜くらいで小さくされるような神じゃないぞ。クリスチャンなめんなよ。こっちはこういう風にやります」と。
それが、あの寛容さとつながっているように思えるのです。
その姿勢は私たちにも伝わっているからこそ、上馬さんの投稿は、長年多くの福音的なクリスチャン・教会からの理解を得られ、高須院長にもリツイートされたり、NHKにも取り上げられたり、はたまた大喜利アカウントの坊主や、イエス・キリストという名前を勝手に使っている世俗のアカウントとも相互フォローになっているのではないでしょうか。
次回は、上馬さんがX界のアーサー・ホーランドである説を検証します。
※本文中一部敬称略いたしました。