上馬さんこんにちは⑦

上馬さんに見習いたいことをどんどん取り上げていきます。
次に紹介させていただきたいのは

・上馬さんは敵をも愛している

というものです。

上馬さんのXでのポストや本、Web媒体でのインタビュー記事などをいくつも読んできましたが、そこでたびたび強調されるのは、上馬さんのあまりにものびのびとした寛容な姿勢です。

まじめ担当のMAROさんは、著書でこう語っています。

 人は人を変えることはできません。人を変えることができるのは神様か、その人自身だけです。ですから、いくら人に「変われ」と言っても無駄なことで、できることは自分が変わることだけです。

 クリスチャンが信じる聖書も、客観的には「一つの正義」にすぎません。ですから、信じない人に「これを信じろ」と押しつけることはできません。クリスチャンにできることは人を聖書に従わせることではなく、あくまで自分が聖書に従うことだけです。しいて言えば、その従う姿を人に見せることだけです。その姿に相手が同調するかどうかは、神様か相手に委ねられているのでどうすることもできません。

「人生に悩んだから「聖書」に相談してみた」KADOKAWA、2020年、73-74ページより

私自身、クリスチャンになってからも、さまざまな出会いや失敗(クリスチャン的にいうならば「砕かれる」)体験を重ね、信じることや伝道についての考えが少しずつ変えられていきました。

その中には、自分から意識して変えたところもあれば、自然に変えられたところもあります。ただ、人から「変われ」といわれてすぐに変われたことは、恐らく一度もなかったように思われます。

MAROさんが指摘されているポイントは、自分自身を踏まえた上でも納得できるものでした。

さらに、上馬さんは、聖書を伝えるだけではなく聖書を実践しているのだなと感じさせられる点が、いわゆる他宗教の人、ノンクリスチャン、さらに他教会のクリスチャンなどに対する接し方なのです。

ふざけ担当のLEONさんの発言を引用します。

ふざけ担当(以下ふざけ) 「キリスト教徒」をどう定義するかによって若干解釈が異なるのですが、洗礼を受けたときから、ということにすると僕が「キリスト教徒になった」のは大学生になってからです。

 僕は両親がキリスト教徒の「クリスチャン2世」として生まれ、幼い頃から教会に通っていました。でも、両親から「洗礼を受けろ」と言われたことは全くありませんし、自分でも誰かに言われて洗礼を受けるのは絶対に嫌でした。神様はいる、となんとなくは思っていましたが、自分でその確信があるまでは洗礼を受けたくなかったんです。

「ツイッター効果で礼拝参加者が2倍に!「上馬キリスト教会」の"押し付けない"スタンス」
文春オンライン、2018年5月20日

※バランスをとるために併記しています。

さらに、別のインタビューではこんなことも話されています。

ーー……はい。これはやらないようにしている、ということはありますか?

 渡辺さん「他宗教他宗派はいじらない、ということですね。それに限らず、誰かを傷つけることはしない。それと、興味は持ってもらいたいけれど、押しつけないということも心がけています」

「教会が言っちゃう?「クリスマスにイチャイチャすんなよ」自虐の狙い」佐藤岳史、withnews、
2018年12月24日

松谷 教会がツィッターをやりたがらない理由の一つに、「炎上が怖い」ということがあるようです。特に渡辺さんに聞きたいのですが、炎上しないように「ここまではやるけど、ここからはやらない」というような基準のラインはあるのですか?

渡辺 みんなが分からないギャグをやらないとか……(笑)。とてもコアなネタをやると、炎上しやすいかもしれません。あとは、聖書をいじることはあっても、特定の誰かをいじったりはしないことですね。

「伝える「ゆるさ」は世界一? 話題の上馬キリスト教会に直撃!! ツイッター戦略の裏側を大公開」Kirishin、2018年12月25日

お笑いは、相互の信頼関係とリスペクトの上に成り立つという常識を踏まえた上で、上馬さんはふざけたことをしていることがよく分かります。

それでも、長い歴史の中では、「教会冗句」での意図しない差別表現を謝罪されたり、すべった投稿(受けた投稿さえも)を消すなどのこともされているようです。

上の動画では、すべることを恐れない(ように見える)ふざけ担当の方の貴重なインタビューを拝見することができます(隣で聞いているまじめ担当の方は、なんともいえない表情でしたが…)

今回は、最後に私が思っている素朴な仮説を書いて締めたいと思います。

ときどき、上馬さんはいわゆる聖書イジり、神イジりといわれるお笑いがときにクリスチャン界隈から顰蹙を買っている印象を受けます。

ここからは、私の全くの仮説なのですが、上馬さんは、ノンクリスチャン、いわば神を信じない人、神を恐れぬ人たちの神イジり(冒涜)に対して、「敵を愛する」という聖書的観点からひとつのアンサーを突きつけているのではないかと思うのです。

「俺たちの神はそんな冒涜くらいで小さくされるような神じゃないぞ。クリスチャンなめんなよ。こっちはこういう風にやります」と。

それが、あの寛容さとつながっているように思えるのです。

その姿勢は私たちにも伝わっているからこそ、上馬さんの投稿は、長年多くの福音的なクリスチャン・教会からの理解を得られ、高須院長にもリツイートされたり、NHKにも取り上げられたり、はたまた大喜利アカウントの坊主や、イエス・キリストという名前を勝手に使っている世俗のアカウントとも相互フォローになっているのではないでしょうか。

次回は、上馬さんがX界のアーサー・ホーランドである説を検証します。

※本文中一部敬称略いたしました。

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