0. 40代で留学すべき人とは :アラフォーから始める留学(仮)
留学の引き金は未来への恐怖
いきなりアジェンダ変えて0章を追加します。ゴメンなさい。
僕が留学を決めた理由は一言では言い表せませんが、非常に乱暴にまとめると「未来への恐怖」だったと思います。その正体は実に漠然としたものなのですが、おそらく、40歳を過ぎ、人生の後半が見えてきたから感じる恐怖なんだと思っています。この歳になると、多くの人は一通りのことを経験していて、物事の大体の程度が把握でき、それなりに生活できる収入もあり、手に職も付いてきて、それなりの人脈もある。若いころ頑張った人は尚更に経験の貯金で、大概のことが上手くいくでしょう。ある種社会人としてもキャリアピークに近づいているのではないでしょうか?
もちろん、この歳ならではのしんどいことも増えてきます。残念ながら親や親戚、友人など大切な人との死別だったり、自身の健康だったり、もしくは未だに安定して食えている状態ではない人もいるかもしれません。こんな状況の中で、うまくいけば残り40年くらいの自分の人生に嫌でも想いを馳せるようになります。そこから出てくる未来への恐怖は複合的なものです。このキャリアで死ぬまで食えるか?定年した後どうする?年金もらえるの?といったしょぼい不安はもちろんあるでしょう。でも、何より最大の恐怖は、他にあります。それは「安定」です。僕の場合、40代に入ると、しんどいけどやりがいのある仕事を任され、収入も確保し、信頼できる部下もいて、仕事においては悪くない状況でした。また、私生活においても、上京して20年を過ぎ、奥さんとも仲良く暮らし、友人も沢山出来て、むしろ故郷より東京の方が居心地が良いと感じる様な、非常に安定した状況でした。しかし、この心地よい、安定したルーティンを送る残りの人生を考えた時、僕は、「安定という名の停滞」に徐々に恐怖を感じ始めました。
「俺、枯れた!」認定が恐怖の正体?
当初、僕はこの「安定という名の停滞」の恐怖の正体を、「自分の天井を認める」ことへの恐怖、だと思っていました。自分のキャリアはこんなもんかな?自分の専門性ってここが限界なのか?はたまた、他にまだ自分のタレントは眠ってるんじゃないだろうか?という、ポジティブなようでネガティブな、多少中二病の香りがする思いです。
一方、自分の能力限界を認め、今現在見えている収入やコミュニティの中で、うまいことやっていく事が残り半分の人生だとしたら、まあそれもアリなんですよね。僕は農業も魚釣りも大好きなので、そういう趣味を愛しながら、仕事とバランスとって豊かに生きていく生活は非常に魅力的です。今すぐにでも、またやりたい(笑)。実際、40過ぎたあたりから週末釣り師になって、プランターでハーブを栽培することが結構楽しくて、育てたミントでモヒートを作って、釣った魚の燻製を肴にベランダで一杯飲るのは最高のひと時でした。でも、何故かいつも、”ざわざわ・・・”したものが心にあるんです。大好きな魚釣りをしていても「お前っ、それがお前の頂上なのか?」「このままそうやって年をとるがいい・・・。」という心の中のカイジ、いや自分の声が。
と言っても、「圧倒的金持ちっ・・・!」とか、「フェラーリ保有っ!至上にして最高の道楽・・・!」とかという物欲じゃなくて、自分はこの人生に納得してるか、という自己問答ですね。これって結構タフな事で、本気で自己限界を認める事はかなり勇気のいる事です。だって、伸び代が無い事を自己認識するわけですから、「俺、枯れました!」認定です。こわ。だから、まだまだイケる自分であるために、「僥倖!!自分の天井はまだ先にある・・・!いわば無限っ!!」と思うようにしました(はい。もうカイジはやめます)。でも”ざわざわ”は消えなかったんですね、これが。そもそも昔から才能無限と思ってたし(笑)w
老害への第一歩「限界自己認定 "回避"」が最大の恐怖
40歳にもなると、日々の仕事の中で、少しずつ限界自己認定をクリアしているはずです。例えば、「俺はジョブスにはなれんな」とか「こういう仕事は向いてないな」とかを繰り返して、自分の能力を最大化できる足場を固めているのが40代だと思います。でも、本気で限界認定はしてないはずです。つまり、自分の器の最大値を、こんなもんだ、と認めることを避けている。「やればできる子」という自分をどこかで守っている。少なくとも僕はそうでした。でもたまに気づくんです。世の中に愚痴ってる自分に。自分以外の環境に、自分の過去に、最近の若いもんに、言いがかりをつけて、自分はまだ伸び代があるというプライドを守ってる自分に。で、ふと気付いたんです。
「ああ、自分はこうやって歳をとっていくのだ。これが老害の始まりだ。自分が嫌いだった大人に、今、まさになろうとしている。」
これが、恐怖の正体です。書いてて今わかりました(笑)。
先述のように自分の限界値を認定する、ということはかなりの恐怖です。一方で、自ら本気でそれを確かめに行くことは、さらに恐怖です。未来に残しておいた希望とプライドを破壊することになりかねないので。そして、もっと怖いのは、限界確認せずに「やればできる子」のまま年を重ねることなのです。
今の政治や、年配サラリーマン、果てはモンスター顧客の中に生息する「老害」に辟易しながらもしぶとく生き残ってきた自分が、今後その老害への道をたどるか否か、その分水嶺に立っているのが40代です。そして、その老害の正体は「やればできる子」という設定の下に何もやらない「中二病の爺婆」なんですね。出来ないのは自分じゃなくて周りが悪い、というアングルで減価償却中の人生を生きている、という人たちです。
40代からでも留学すべき人とは
この中二病爺婆の方々。本人たちは結構幸せに生きているかもしれません。そしてアラフォーの皆さんにも、それが人生というものだ、と思う方もいっぱいいると思います。そんな方々は、絶対留学しないほうが良いです。時間と金とポジションという現存資産を減らすだけです。その生き方を否定はしません。ただ、もしそんな残り半分の人生を送りたくない、と思う方なら、留学は魅力的な選択肢です。起業や転職も一つの方法ですが、何より海外という「ドAWAY」に単身飛び込み、そこで生活する事に勝るものはないと思います。
ちなみに、20代の、むしろ未来だけが資産、のような状況で行くのとは訳が違います。今の安定した状況を放り投げて、20年かけて培った自己限界を自ら確かめに行き、自分に出来る事と出来ない事をはっきりさせる。言葉、法律、慣習、すべてが素人からのスタートです。壁にぶち当たってもすべては自己責任。自分の過去や人となりを知っている人は周りにいません。コミュニケーションをとらないと何も始まりません。毎日が自己限界の確認であり、それは伸び代だったり、本物の限界だったりします。しかも人生の残り時間はそれほどない。戦闘力を10分の1以下にして、自ら過酷な環境で一から修行しなおす、というドMな行為なのは間違いありません。言ってみれば、「精神と時の部屋」(しかも時間の流れは普通)に入るようなものです。
それでも、僕はアラフォー留学を強くお勧めします。
まだ渡米してたった2ヶ月ちょっとですが、今の所、僕は毎日自己限界に出会い、同時に伸び代に出会っています。今やスタバで難しいメニューを頼めるし、チップの加減とお勘定のタイミングもわかります。道も聞くし聞かれるし、部屋のエアコンが窓から落っこちた時、近所の人に回収手伝ってもらって、コーヒーおごって談笑したりも出来ます。何より世界中の人たちと机を並べて勉強するということは、知識だけでなく固定観念や価値観を根底から揺さぶられます。如何に自分は偏見に満ちていて、矮小な知識の中で偉そうにしていたのかを思い知らされます。知らないことや出来ない事がいっぱいあるということは、楽しいものです。決してすべての人には薦めないけれど、この文章を読んで、少しでもドMな心がくすぐられたあなたには、ぜひ挑戦してもらいたいと思います。
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