46歳留学で得たもの(2)--- Perception Changeの正体

前回、Perception Changeが留学で得た最大の財産だ、というお話をしました。今回はその詳細をもうちょっと噛み砕いて。

「音」と「意味」と「使い所」のセットで言語を認識する

母国語以外でコミュニケーションしていくと、だんだん、使用言語で思考するようになっていきます。徐々に脳内の思考が英語になっていきます。厳密にいうと母国語思考と英語思考を使い分ける感じです。
留学したばかりの頃、当然僕は日本語で思考していました。なので、英語と使う時、脳内で高速翻訳をしていたわけです。このため、たびたび言葉に詰まります(Stamble:つまづく、と表現する)。すると、なんとなく嫌ーな間が生まれ、なんとなく気まずいコミュニケーションになっていきます。
いい人だったら一生懸命聞こうとしてくれるのですが、それが非常に申し訳ない。普通の人だったら、「あ、おkもういいわ」みたいな感じになるし、嫌なヤツだったら「ぜんぜんわかんね。ちょっと、こいつの言うことわかる?www」みたいな。その度悔しくて恥ずかしくて、次はちゃんと喋ろう、とスマホでググったり、ネイティブの動画を調べたりして、対応ケースを一つ学習します。これが毎日のように続きます。
すると、そのうち、翻訳しなくなってきます。英語のことばそのままで捉え、そこにイメージや動画を直接紐つける感じです。

その例として、いつもコーヒーを買っていたデリでの、店主のマルケスとのお話を紹介します。

マルケスはプエルトリコ人のすごくいい人で、いろいろサービスしてくれたり、近所のいろんなことを教えてくれました。でも、上手なお礼の表現も出来ず、無機質なテンプレ言葉しか返せない自分が悔しくて、学校に通う道すがら「次はイケてる返をしよう」とぶつぶつ考える毎日でした。
で、1ヶ月ぐらい経つと、ネイティブが使う言葉を覚えて流れが良くなります。
2ヶ月目、会話に自信がついてくるので、単純にキャッチボールの量が増えます。
3ヶ月目、この頃、日常会話ではあまり日本語に翻訳しなくなってきます。

この積み上げ課程を今にして思うと、単語や文法を覚えるのではなく、「音」と「意味」と「使い所」のケーススタディで体になじませる作業だったと感じています。

ここで言っている「ネイティブが使う言葉」とはスラングのことではなくて、音の塊というか言い回しに近いニュアンスです。

たとえば、

Nice to meet you.
I'm fine thank you, end you?
I'm fine too thank you.

という挨拶のパターンを学校で習ったりしますが、現地の日常でこれがそのまま使われることはほぼないんですね。

マルケスは

Hey, what's up? (おう。どうよ)
とか
How do you doing?(どうしてる?=げんきだった?)
みたいな感じで投げかけて
I'm good(調子はいいよ)
Nothing(特になにもないよ=いつもどおりだね)
みたいに返します

さらに、かなりどうでもいい話を突っ込んできます

「俺、スーダン人の友だちがいるんだけど、帰国できなくて泣いてるんだよね。どうしたらいいと思う?」
とか

英語でいうと

You know, I've a close friend, Sudan guy.
And he's sobbing these days because he can't back to his mother country. 
what should I do? 

という感じなんですが、まずスーダンの発音が「す・ダーン」って感じなのでなんだかわからない。sobはメソメソ泣くってことなのですが、英語学習であんまり出てこない(大体、泣くはcryで固定して覚えちゃう)ので、これもまた意味がわからない。
音的には
「ヒズ そ・ビング ディーズデイズ びクず ひ・キエァンと バくとぅ ヒズ まだー カントゥリー」みたいに聞こえる。

最初の頃、わかんないからニコニコ笑ってソーリーアイドントノウで返すのですが、だんだん慣れてくると、聞き直すことを恥じなくなってくる。

Huh? What is す・ダーン?
とか
sobbing mean what?
とか

そうすると、
「アフリカのやばい国だよ、あの、内紛やってて、テロ国家指定の」
とか
「sobbingって、あれだよ、oh my godとか言いながらメソメソ泣くことよ」
とかジェスチャー付きで説明してくれます

こういう「ネイティブが使う言い回し」を、辞書を引かずに「音」と「意味」と「使い所」だけで覚えていくと、あら不思議、脳内翻訳しなくなるんですね。

異国語での思考とミーム

このように、毎日英語ケーススタディ100本ノックを1年ぐらい続けていると、思考も英語で考える様になってきます。

たとえば

今日はstrategyのclassのfinal dayだから、帰りは飲み会になるかなー。AliceとかがK Townでhang outしようとか言い出したらやばいから、先にJefとかにafter class はaround Villageでgrabしてchillしようぜってtextしとくか

みたいな、思考をし始めます。

この日英ちゃんぽん思考がそのまま言葉ででちゃうのが帰国子女の脳内なのだ、と、ここで、彼らの気持ちが凄くよく分かるわけです。英語でニュアンスを掴んでて、日常使用になってる言葉は翻訳しない、というか翻訳しようとも思わなくなってきます。まして、英語ファーストで覚えちゃった言葉は、そもそも脳が翻訳できない状態になっていきます。
例えばhang out(ディープに飲み歩く)とか、chill(まったりする)とかは、最近日本でも使われ始めてますが、僕はアメリカで覚えました。ちなみにgrabとは、grab the beerの略で、ビールなどのでかいグラスでの飲むアルコールをgrab(がしっと掴んで)飲むことです。

こんな感じで「異国語で考える」事ができるようになってくると、なんとなく、脳内の思考回路が変化し始めていることに気づきます。

感覚的な話ですが、僕は、言葉と意味が分離していく感じを覚えました。もうすこし正確に言うと、意味に言葉がぶら下がっていて、言葉が思考回路を形成している感じ。

例えば、先程のgrabですが、僕の脳内では「グラスをワシっと捕んで炭酸系アルコールをプハーッとやる」という意味を説明する言葉として、僕は認識しています。日本語でいうなら、「一杯やる」という言葉になりますね。
でも、僕はgrab the beerという行為からこの単語を覚えてしまったので、脳内で和訳しません。「grab」と「一杯やる」は「グラスをワシっと捕んで炭酸系アルコールをプハーッとやる」という意味に並列してぶら下がっています。英語で考えるときは「grab」が、日本語で考えるときは「一杯やる」が各言語思考回路に直結しており、翻訳によってこれをまたぐことはありません。

この、言語の上位概念としての、概念や意味を表す最小単位の知識のことが、ミーム(meme)というやつなのか、と思ったりします。

ミームってなんだ


インターネット・ミームという言葉を聞いたことがあるかもしれません。この場合、「めちゃバズったおもしろ動画」みたいな使われ方をしてますね。

もう少し広義に言うと、言語を超越して、モノマネとか見よう見まねで認識する事柄全般を、ミーム(meme)と呼んだりします。
元々は生物学用語で、その語彙には難解な説明がつくのですが、簡単にいうと文化の遺伝子という意味合いを持ちます。

人間は、物事の意味を、五感+シチュエーションの組み合わせを通じて脳内にコピー、その意味を認識・理解して、自分が考える適切なシチュエーションで再利用するようになります。その認識の最小単位の概念がミーム。言語よりもイメージよりも根幹にあって、人の脳内にしか存在しない事象認識の遺伝子。事象が起こる背景には必ず文化がある(生活習慣や食習慣、不文律など)わけで、文化の遺伝子というわけです。
インターネット・ミーム = バズりネタ、みたいな説明がされてるのは、言葉+画像、その言葉が吐かれた背景や画像が撮影された前後の文脈をひっくるめてバズりネタになっているため、これは五感+シチュエーションで成立するミームじゃないか、というものです。

僕にとって、grab(一杯やる)もtext(メールする)もchill(まったりする)もミームとして覚えています。ミームとして覚えた事象は、たとえ同じ意味の単語を知っていても、母国語に翻訳しません。そして、ミームにぶら下がる言語の組み合わせを忘れることはありません。

このミーム的記憶というか伝播の体験は、母国語環境だけに暮らしていると理解できないでしょう。本来、全ての人間は言語に依存しないで知識を習得、つまり、ミームで物事を覚えてきたはずです。でも、成長してくると即座に母国語で言語化して、知識を母国言語に固定してしまう。赤い皮で甘酸っぱくて、秋に収穫されるあの果物は「りんご」に固定され、Appleは異国の呼称としてりんごにぶら下がる派生情報となります。いちど母国語で知識固定された情報は、母国語の意味でしか認識しなくなります。りんごはりんごでしかない。りんごとは何か、なんて考えなくなります。さらに、教科書や図鑑を通じて、見たことのないものを言語で認識・理解して、母国語による知識範囲を広げていきます。

唐突ですがオオアリクイの話。
エクアドル人の友だちから英語とジェスチャーで説明されてそれがオオアリクイのことだとわかって、僕にとってこれはミームになりました。

もともと、僕が持っていたオオアリクイの知識体系はこんな感じ・
全部日本語であり、英名Giant Anteaterは知りませんでしたがググればわかるでしょう。この場合、あくまで日本語の思考回路だけで稼働する知識です。

母国語の図鑑や教科書で覚える知識のイメージ

上記のように、図鑑や教科書で覚えた知識は、まず絵や写真と名前がセットになった見出しデータで覚え、特徴や習性などの情報はこれにぶら下がる形で整理・格納されます。そして、全て母国語で言語化された状態で記憶します。参照頻度の少ないものは忘れます。

ところが、僕の体験のように、実際に野生のオオアリクイを見たことがあるエクアドル人から、
「ジャイアントアンティエター(アント・イーターって聞こえなかったところがまたミソ)って動物、わかる?鼻が長い、くっさい、アリを食うんだ。サバンナにいるの」
と説明されて写真を見せられると、英語による知識体系がオオアリクイという名詞にそのままぶら下がります。

ミームで覚える知識のイメージ

エクアドル人の英語が発した発音、場所や国、大きさや匂いといった非言語情報が映像を取り巻くようにくっつき、英語の思考回路で稼働するようになります。そして両言語の知識体系が、並列に並びます。日本語のオオアリクイの知識体系を翻訳した知識、という従属関係が消し飛んで、オオアリクイという存在が2つの言語をブリッジする、意味の集合体みたいな感じになります。言語記憶ではなく「アリを食べるあの奇妙な南米の生き物」で「オオアリクイでもありジャイアント・アンティエターでもある音」と「乾いた草原でのそのそ歩き、けっこう獣臭い」という存在の情報全体がミームと呼べるのかもしれません。

インターネット・ミームが日本でバズりネタと意訳されている理由は、一つの言語だけではミームの概念を理解しづらいからでしょう。
全ての人間は、母国の人間に説明するために、母国語に翻訳して理解しようとします。
一方、異国に住み、異国の言語で覚えたものは、母国語に翻訳する必要がないので、母国語に従属した知識になりません。
母国語で予備知識があった場合、異国語知識と並列にくっついてミームのグループを形成しますが、母国語の予備知識がない場合、独立したミームを形成することになります。

僕はオオアリクイという日本語の知識体系を先に持っていました。
もし僕が動物園でオオアリクイを見つけて、アメリカ人の子供に説明する必要があったなら、日本語思考 -> 翻訳の回路を使うでしょう。

でも、英語の会話の中でGiant Anteaterという知識体系を英語で覚えてしまったので、予備知識と違うルートでミームが定着しました。すなわち英語と日本語の体系が並行でぶら下がるようになりました。

ちなみに、僕はアメリカ在住時代にCardinalという美しい声で泣く赤い鳥を見つけました。僕の中では、Cardinalは「春先にきれいな声で鳴いていたあの赤い鳥」を説明する言葉として独立したミームになっています。キリスト教の枢機卿が着る鮮烈な赤と同じ色だからそう呼ばれている、と友達に英語で説明されました。日本名はショウジョウコウカンチョウと言うそうですが、まだ全然知識が定着してません。「あの赤い鳥」は未だにCardinalです。つまり、英語知識体系で出来上がったミームに、日本語知識は従属した感じになっています。

Cardinal
By Andy Morffew, CC BY 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61980390

このように、世界には母国語に翻訳できない、もしくはする必要がない事象があり、言語化できない知識があります。でもそれらは全て確実に脳内に存在しており、そういった情報全てを括れる概念がミームだと理解しています。

すべての事象解釈は多様である

このミームという知識体系の感覚を覚えると、
「世の中のすべての出来事は多面的なのだ」
と腹の底から自覚するようになりました。

一つの事象を説明するのに、言語の数だけ解釈の仕方と思考回路が成立します。世界には約7000の言語があるそうなので、一つの事象には少なくとも7000通りの説明が存在するということになりますね。そして、これに、人の個性や社会の伝統の数が掛け算される。
日本語だけで思考してきた純ジャパの僕としては、違う言語での思考回路が形成されたことが非常に新鮮で、世界が開けた感じがしました。

物事の解釈は、根源的に多様であり、それが普通なんだ、ということを、実体験を通じて認識した、とでもいいましょうか。
本やニュースで喧伝している多様性という言葉には、差別へのカウンターを含んでいることが多いですが、そういう話ではない。物事の解釈が多様であることは、正義でも悪でもなく真理であって、自分が知った気になっている知識なんてすべて一方面からの氷山の一角でしかない。
違う言い方をすれば、正義も悪も、成功も失敗も、幸福も不幸も一つの解釈に過ぎない。だから意見の食い違いがあり、争いがあり、対話が大きな役割を占めるようになり、相手の考えに敬意を払う、という姿勢が重要になっていく。他人と100%フィットすることはむしろ奇跡であり、フィットしないからこそ共通点を探ってうまくやっていく必要がある。

こうやって書いていると、至極当たり前のことを言っている感じがしますね。でも、「多様性を受け入れるという正義」みたいなものではなくて、ミームでブリッジされるマルチ言語の思考回路が自分の中に出来上がると、自分の志向の中に多様性が存在していることをを自覚するわけです。
異なる思考プロセスが一つの事象につながっている。
すべての物事には、幾千幾万の解釈の道が存在していて、無限のコンフリクトと同時に無限の解決方法がある。
既に知っていた事柄にも、あまりにも未知の領域がいっぱいある。それはものすごい伸びしろであり、知的好奇心が満たされることも、自分の進化が止まることも、多分死ぬまでない。
この、知識の無限地獄が見えた絶望と、無限の進化マージンが見えた希望がないまぜになった感じで「これが、僕が生きていくこの世の中なんだ」と自覚したこと。これが、僕のPerception Changeであり、留学によって得た最大の財産だったと感じています。

Perception Changeという財産

留学前、鬼のように仕事に没頭した20年くらいがあって、ある程度のことが想定できるようになって、仕事がうまく回る反面、未知の領域への挑戦を遠ざけ始めている自分がいました。未知はリスク。成績を出すためには知見を最大限に活用して、想定内で収めることが肝要。それがマネージャーというものだ。そう思っている自分がイケてない、と思いながらもんもんとする時期に差し掛かっていました。

国内で大学院に通って、知識増強はある程度出来ましたが、結構想定内と感じました。もちろん、新しく得た知識領域はいっぱいあって、なるほどー、と思うところもいっぱいあったのですが、全て既視感があったんですね。
日本語による日本のカリキュラムなんで、言い回しも、教え方も似たような感じなんです。言葉や事象の定義も紋切り型というか。MOTだったからというのもありますが、数式やゴシック体の重要単語を暗記させられて、それをうまく組み立てて説明すればOK,みたいな。なんか違うなと。

で、じゃあ違う言語で、違う国でやってみようということでアメリカ留学したわけです。マーケティング畑の人間がマーケティングを専攻しているので、習得する知識そのものは既視感だらけでした。でも、違う言語で思考することで、微妙にニュアンスがズレるんですね。そして、コミュニケーションもズレる。それは僕が英語が下手だから、というだけではなくて、そもそも物事を解釈するアプローチがちょっと違うということが見えてくる。同じ事象に、異なる言語による異なる解釈の道があって、どっちも真であることがわかってくる。

「ああ、世の中の知識や事象というものは、全てメタで捉えるべきなんだ」

つまり、言語より一段上の、知識の遺伝子とも呼べるミームという考え方で物事を上空から捉えるようにすると、解釈の誤差なんてあって当たり前のことで、逆にその誤差がなんで生じるのかを考えると、コンフリクトって面白いねー、という境地に達してくるのです。逆に、専門用語やフレームワークの意味を覚えることなんか誰でもできることで、その知識のもっと上空にあるメタな領域を捉えることができれば、いくらでも派生知識をぶら下げて応用することができる。定義されている知識や、起こっている事象には、必ずミームというメタな領域があって、知識情報や事象はそこにぶら下がる無限の枝なのだ。何事も、ミームを捕まえないときりが無いけど、ミームで物事を覚え、認知できるようになったら、思考の幅と選択肢がものすごく増えるぞ。もっと前に知りたかったぞこれ。

そんな感じです。

凄くシンプルに言い直すと、僕のPerception Changeは

「多様性は前でも悪でもなく世の中の真理」
「だから、摩擦も解決方法も無限にある」
「ミーム的に物事を捉えれば、大抵の誤差は吸収できる」

という僕なりの悟りのようなものです。

だから、人や社会が多様であることをなんの抵抗もなく受け止めることができるし、ストレスにも感じない。なぜならその解決方法は必ず、無限に見つかることが解ったから。そのためには、自分の思考には必ずバイアス(主に言語による)があることを自覚し、ちがう思考との共通項となるミーム(メタ情報)に思いを馳せればいい。これは死ぬまで続く勉強であり、知的好奇心を無限に満たしてくれる。多様性社会バンザイ!

学位じゃない大きな財産

結果として、僕は多様性を腹から受け入れ、ミームでものを捉えることの大切さに気づく、という大きな財産を手に入れたと思っていて、ものすごく満足しています。
トランプ・フィーバーや家庭の問題などで学位を取らずに帰国しちゃったけど、思考が変わり、生き方の基準が大きく変わりました。これは異文化で、異言語で生きないと手に入らなかった変化であり、生まれた国だけで生きていく人には訪れない変化でしょう。

だから、声を大にして言っておきたいのは、
「違う文化、違う社会、違う言語で、生活する経験を持つべき」
ということです。留学でも、ビジネスでも、なんでもいい。

単一言語で、ほぼ単一民族単一文化(アイヌ・琉球・中・韓などの移民の方々の言語と文化は存在していますが、習慣や思考は日本に同化させられている、と思ってます)のこの国では、思考プロセスが変わるくらいの変化は起きにくい。何より、母国にいて、母国民としての身分が証明されている生活ではなく、自分が何者かを異国の言語で説明しなければならない状況、すなわちエイリアンの環境に身を置かないと、Perception Changeは起こらないでしょう。きっと、皆さんは僕とは違う変化を実感ことになると思いますが、新しい思考回路を持つことは確実です。

これまで1本しかなかった回路が2本になるだけで、ものすごく道がひらけた気分になると思います。そして、正義としての多様性ではなく、そもそも自分が多様性の一部であることを自覚させてくれるはずです。

そこから生まれる新しい人生はきっと豊かなものになるはずです。
少なくとも、僕は以前よりもずっと、豊かな生き方を実感しています。


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