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作品情報
「山田芳裕(やまだよしひろ)」さんによる成人向け漫画
『モーニング』(講談社)にて、2005年8月〜2017年11月まで連載
12年ほどの連載で完結しています
アニメ化も2011年にされてます
39話程度
導入
「史実と一緒」というなら、ネタバレもくそもないので、バラしまくって行きます。
「数寄者」という「行き過ぎた芸術かぶれ」をテーマにした作品…なのだと思う。
古田重然(ふるた しげなり)、後の古田織部(ふるたおりべ)という、実在の人物
戦国時代、1577年安土、織田家臣の軍議の風景からものがたりは始まる
当時、古田はサスケという名で、34歳
「この先どうしよっかなー」というお年ごろ
周りの武将を内心「もっさりしてる」「センスねえな」と思ってる
当時、古田は「伝令や後方支援」に定評があり、信長から信頼を得てた
松永攻めを行う
戦場は倅の信忠に任すが、降伏勧告はお前がやれ
その時「平グモの茶釜を俺に渡せば裏切りを許す」といえと
で実際、火事場で交渉にあたる
その時、後ろに「平グモの茶釜」が目に写ってしまう
古田、泣いてしまう
松永が「ワシの人生は」とか「誰にも渡さん」とか言うてるけど、聞いちゃいねえ
そこで、松永が「聞け」と一括された言葉に感銘を受ける
「圧倒的な力を持つものが現れた時、ワシの道おw選ぶか、諦める道を選ぶか、決めねばならぬ」
つまり「武人として君主として民草と生き延びる」か「芸術家として数寄と心中するか」
秀吉が乱入するが、松永は体に平グモと爆薬を巻き付け、天守閣から叫ぶ
「信長よ、涅槃で待つ、在りし日にお前にくれてやった茶入「九十九髪茄子」必ず土産に持ってこい」
松永「数寄者として死ぬ」ということを体現してみせた
が、古田にはそんなことよりも「平グモはどこに飛び散ったのか!」のほうが気になる
飛んだ破片をうけにいくが「あちー!」となる
なんだかんだあって、秀吉の手柄になる
信長様は本当は「屈服することが望み」で、平グモとかどうでも良かったのでは?
古田は信長の元に「ご所望の品持参しました」と歩み出る
粉々で真っ黒なくず鉄の破片を差し出す
「平グモのフタにござりまする、無残な姿に成り果てました」
信長は大爆笑する
家臣たちは「そういえば、お館様は長く笑われてなかったな」と
くれてやるもってけ
信長は「なにかやりそうな男では在る」と
ここまでが第一話
これは現代においての「芸術ぐるい」とも言える「数寄」と「武の道」また、「戦国の世をどう生きていくか」の物語。
観想
一度「すごいの出てきたぞ!」ってマンガって、最後まで追いかける事が少ない
例えば「このマンガが凄い!」とかで話題になって「うおー、追いかけなー!」で、その当時までの最新まで追う
で、その後は「連載のスピード」あるいは「単行本のスピード」で追うことになる
で、追いかけなくなる、そして忘れる
最後まで追いかけることは少なく、完結したのも解ってないことが多い
今回もそれだったので、そのために「最初から通して読んだ」
だからこその「今読んだ」なんですよね
いーー頃合いの、完結作
25巻なら、頑張れば2日で読める
史実を「ある程度」考慮してる「痛快娯楽作」
節目節目の「大きなイベント」は史実に合わせているものの、
不思議なタッチかつ芸の細かい作画
なんとも言えない線の太さ
昔の漫画は線が太いが、それともまた違う「線の太さ」である
手塚治虫とか石ノ森正太郎とか、昔のまんがは線が太いし、またディフォルメされたマンガもまた線が太い
例えるなら「楷書体の毛筆」みたいな太さがある
草書体は細かったり、滲んでたり、頼りないところがある
基本は太く、ハネやハライを想起させる
コマの線が「震えた線」になっている
古い古文書とかで「手書きで線を引きました」みたいな風合い
どうやって書いてるのかわからんし、なんか「そういう書き方」「そういう機械」があるのかはわからないが、
最後までそれ
そのくせ、茶碗等の「芸術作品」だけは、わけのわからない書き込みで書いてある
主人公は「芸術家」であり「目利きの骨董鑑定士」であり、出資者・資産家であり、芸術の大家の位置づけであり、インフルエンサーであり…というものに最終的にはなる
ただ「それになるための過程」と「それになるための足掻き」を描いているのが好み
天才や偉人は、ともすれば「自分の内なる声に従えば自然に位置を手に入れてる」って思いがち
でも、この作品中の古田織部は「ここ、勝負どころで…権威を手に入れることができる!」とか「武人でいくか、茶人で行くか…」とか、俗物だし葛藤する
聖人や偉人でなく、飄々とした俗物である、風に描いているのも好き
自身が俗物なのはわかってて、本当の「才能者」や「求道者」を羨んでるフシがある
お金にも目ざといし、盗むしw
自分が大家になった後も、「自分の考えた自分が好きなの、流行れ!」的なバズりやトレンドを望んでるし
町に降りてって正体隠して若手を鼓舞する「芸術、水戸黄門」みたいなことしてるし
学術・芸術としての「茶の湯」を体系づくりしてるくせに、「自分の好みは本当はこうだ」のようなものを現してて、それはラフだったりする
要は「ビジネスマナー」と「自分の思う”最高にロック”」を同時開発してて、どちらかというと「最高にロック!」のほうが、流行れって思ってる
その趣味のほうは「織部ごのみ」として、後世にも伝わってる
その、後半における「好き勝手している」「ひょうひょうと、でも必死に図太く生きてる」というのが、タイトルの回収として浮かび上がってくる
本人が自覚する、というのがこの作品の見せ場じゃないかなーと
歴史を下地にしているけれど、「下地にしている」程度で、こだわってない
どちらかというと「テーマ」程度のもので、書いてることは「描きたい優先」「エンタメ寄り」だと思う
例えば「千利休」を巨漢で描くことは、ママ在ると思うけど「老いてるのに筋骨隆々で、忌の際に鉄拳で人殴り殺せる」とか
主人公は「現代の感覚を持った芸術評論脳の人」として故意に描いているのかな
今やったら良く言う、擬音の感じ、例えば「この”くちゃっ”とした絵よなー」みたいなのをわりとしゃべらせてる
Wikiではオトマノペだって言うてるけど、物体に対して「ズドギュッ」・「ガニッ」・「はにゃあ」・「ホヒョン」みたいな評価をする
それは事実かはおいておいて、この作品中では「主人公は現代の感覚ほどだった」という有能さ先進性の示し
自分たち「現代の読み手」にとって「作中は数百年前の日本」という”異世界”をのぞき見ているのに、一人だけ「俺らと一緒」という一週の周り方
作中で「異質な人間である」というのが、読んでて理解できる
それに関連して、作品に「現代のサブカル」や「現代の芸能」「ちょいレトロ」を散りばめている感じ
本の装丁や巻末予告などに「英語やデザイン性の高いもの」を多く入れてる
新旧問わず、ポップスやロックの題名、歌詞などを散りばめてる
登場人物のモティーフが、具志堅洋行だったり大橋巨泉だったり
シャレの聞いた「後のXXである」が多く出てくるのもおもろいw
自分では本当かどうかは解らない(そない教養がないので)が、後の〜であるを「言わずに」しれっと出してくる
例「これ、この陶器は未来”日本には当たり前にあるもの”として”陶器”の呼び名が”瀬戸のもの”と言われるようになればいいのに」
「数寄者(ひょうげもの)」と「武人」や「政治家」や「権威」というものとの間での葛藤は、現代に置ける「趣味と仕事」の論争や「ワークライフバランス」みたいなものにも通じるのかもしれない
会社の役職や出世を取るか自由を取るか、公人or私人どちらを大事にするか、そういうものも下地に置くと、考えるきっかけになるかもしれない
まとめ
普通ならお硬い、歴史上の偉人伝を「ポップでロックな感じ」かつ「濃ゆい目」に駆け抜けたければ、イッキ見して欲しい痛快娯楽作
ただし、史実通りとは限らないので、お勉強にはしないで下さい
自分と同じように「はぁ、そういえば途中まで読んでたけど…最後まで見てないなぁ」ってなる人、または「話題になったけど、食指が動かんかったし、いつか読もうと思ってた」人には、ぜひ読んで欲しい作品
最後までお読みくださり、ありがとうございます!
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