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お見送りと残心

クアラルンプールに住んでいる前職の先輩が京都まで遊びに来てくれました。京都駅近くのホテルロビーまでお迎えに上がり、2人で近くのクラフトビールバーまで歩いていると、ちろちろと流れる高瀬川。

「京都は河をうまく使った都市設計だよな」と前職のくせが抜けないのか、何かしらの示唆っぽいことを吐き捨てた。鴎外の高瀬舟を思い出しながら、アメリカンコミックのような絵柄が描かれたビールを注文した。

前職はとても厳しい職場環境で、知性のF1レースを毎日していた。できるだけ少ない情報で、より早く正確に面白い発言をする大喜利のような仕事。そこでこの先輩はいつも座布団をたくさん重ねていた。いつかこの仕事のことについてもじっくり書いてみたいが、一言では言い表せないほど虚に満ちた面白い日々だった。虚に満ちたって変だね。

楽しさというものほど、その背景に個別性があるものはないのではないか?

その日の日付に書かれたiPhoneのメモを見るとそう書かれていた。先輩や大切な人と話しているときに何か大切な言葉をもらった時は、いつも携帯のメモにその内容を書いている。酔っているから大抵意味は不明。

もちろんその日はしこたま飲んで、最後に流れ着いた角打ちは何度行ってもその場所を覚えることができない。でもいつも最後にそこに行きつく、先斗町の小さな居酒屋。卯の花が美味しい。

送っていきますよ!

僕は人のことをお見送りすることが好きだ。先輩は何も言わずに、しばらくのそのそと歩いていき、ホテルが見え始めた時にローソンで僕に乳酸飲料を買ってくれた。じゃあこれで、この方がお互い幸せだからと、また示唆を言って先輩は京都の小道に消えていった。きっと、送られる側にも美学があると思う。

どうしてお見送りすることが好きなのだろう。名残惜しいからだろうか、もちろんそれはある。ただ、お見送りをしているとき、我々は多くの場合あまり話すことはない。人は最後の瞬間に考えや思いが心に沈殿することがある。今日会ったこと、話したことの意味を理解したうえで心に留めようとする。例えるなら、化学反応でできた白い反応物がそっと試験管のそこに落ちていくようだ。我々には時間が必要なのだ。

それは残心なのだと思う。少林寺拳法を10年間行ってきた。剣道をはじめ多くの日本の武道には残心という考えがある。突き、蹴り、穿ち、そして斬る。それぞれの所作のあとに動作を即座に止めることはない。気と声を放ち、その一撃に意味があったことを確かめる。

では、いつからがお見送りだろうか。これからお別れとわかっている時だけ、お見送りは発生するはずだ。もしかしたら、これで会うのが最後になってしまうかもしれないし、出会ったからには、最後の一回は必ず訪れる。そして、多くの場合誰しもがこれが最後とは思わない。だから僕はお見送りが好きなのだと思う。しっかりと残しておきたいのだ、それぞれの心に。

近いので送っていきますよ、道すがらですから。

おわり


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