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木漏れ日、光とそれにまつわる名前のないものもの

 ずっと、「こもれび」について文章を書きたいと思っていた。こもれびという言葉を覚え、使い始めたのはいつのことだろう。その言葉の意味を正確に理解するよりも先に、この言葉が持つ曖昧な、正確に言えば意味自体が曖昧というよりは、この言葉が指す対象自体の曖昧さに強く惹かれていた。「木漏れ日」がこの「こもれび」の漢字であることを知ったのは、それよりもずっと後のことで、確か恩田陸さんの「木漏れ日に泳ぐ魚」という小説に出会ったときだったように思う。この漢字を見た時に、確かにそうだよね、と思った。でも「木の葉から漏れてくる太陽の光」が木漏れ日、なんか変だと思わないだろうか。だって、木漏れ日はそれ自体がその形を決めているわけではなくて、元々の太陽の光を遮る葉っぱがその形を約束している。自分ではその形を決めることができないものに名前が付いていることにずっと違和感を覚えていた。でも、まあそういうものかと半ば諦めに近い理解をしようとした時、それも大学から自宅までの帰路にある本屋さん(白山通りに昔あおい書店という本屋があった)でバシュラールの「空間の詩学」に出会った。この本は内容はさておき、その表紙のイメージが素晴らしい。インコ?がドラえもんみたいに机の引き出しから出てきて、自分自身を鏡越しに見ている可愛らしい絵が表紙についている。ちなみに、もう閉店してしまったこのあおい書店(多分白山店)の品揃えは大変素晴らしかった。言語、宗教、哲学など、今ではあまり日の目を見ない分野の書籍がたくさん揃えられていて、入り口のポップにはXmanの主人公であるウルヴァリンの爪が貼り付けられたショウペンハウワーが「F**k You」的なことを言ってるポップが貼られているとてもロックな書店だった。店員さんはみんな真面目そうに見えるのに、どうしてこんなことになっているのだろうといつも不思議だった。18時くらいに訪れても僕しか客がいなかったので、きっとそう長くはないだろうなと思っていたけど、閉店してしまった時はとても悲しかった。もちろん、その店で空間の詩学は買っていない。
 余談に次ぐ余談だけど、この白山通りには「遠州屋」という哀愁漂う飲み屋があって、そこには近くに住む大学の親友Pとよく飲みに行った。特段美味しいわけでもなく不味くもないのだが、お客さんとフロアの人がとても面白くそれを肴に酒を飲んでいた。もう引退されているかもしれないが、フロア担当の方に宝塚歌劇団出身の方がいらしたことを覚えている。背筋がピンっと伸びていて声は後頭部から上に向けて出ていた。完璧なメイクをされていて、どんな迷いも感じさせないへの字の眉がその上に描かれている。それが宝塚出身の方だと直感した理由である。あとは飲み屋に来られている人もロクなやつはいなかった。ポルトガルのバーでワインをたらふく飲みながらこの文章を書いているので許してね。近くの少年野球でコーチをしているというオッサンとその連れ?のオバハンに出会したことがある。奥の座敷で親友のPとビールを飲んでいると、隣の席に座ってきた。話したそうだと、感じた。なので話しかけて、うまいこと煽てて、その日の会計をもって頂くことになった。座敷の話では、その日僕は野球のコーチ見習いとして、翌週の練習に参加することになっていたらしい。なお、僕は野球を一切やったことがない。

 さて、話を本題に戻そう。科学哲学者であったバシュラールは、自身の最後の研究テーマを詩に求めた。そして、その研究の集大成がこの空間の詩学である。詩学と聞くと、アリストテレスのそれを思い出すが、内容は大きく異なる。バシュラールの方は、言葉や対象が持つ詩的イメージの力について論じている。たとえば、机という言葉にはそれ自体そして、その周辺に存在するあらゆるもののイメージがある。そこにはかつて父親に算数を教えてもらった記憶や宿題の解答を写した罪悪感などがまとわりついている。こういったイメージがどれほど重要であるか、無味乾燥な科学に比べてどれほど瑞々しく、どのようにして生まれるのかを構造的に論じようとしている。そして、失敗していると僕は思う。なので、多くの人にとってこの本自体を読む必要はほとんどないし、あまり面白くないとも思う。ただ、もう少しわかり易い例えで言えば、著書「動的平衡」の中で福岡先生は、

君は浜辺を歩く。そして、貝殻を見つける。その時、君はそれがかつて生命を宿していたことに気がつくだろう

動的平衡

と書かれている。そのフレーズを見たとき、人間の認識に関して、その奇跡に感動した。このとき、バシュラールと福岡先生の話が結びついた。そして、その2年後映画「リスボンへの夜行列車」を観た。偶然にもベルリン行きのフライトの中で観たこの映画は、僕の人生に大きな影響を与えた。この文章自体もリスボンで書いている。そして、詳しくは後日書く予定の巡礼の1週間にて書くが、ずっと書きたかったこの文章の内容もポルトガルとスペインを踏破している間にその最終的なイメージを得た。リスボンへの夜行列車には、このようなフレーズがある。

感情は2番目に美しいものである、最も美しいものは詩情である

リスボンへの夜行列車

 もし、これを読んだあなたが世界と自分との間に存在する美しさに強く惹かれるならば、是非この映画を見てほしい。日本語版のタイトルは「リスボンに誘われて」です。
 このフレーズを聞いた時、なるほどなと思った。僕は、詩情は感情に先立つのだと思っている。詩情は、僕らが何かしらを見た時に感じる原始的な情緒だと思う。そして、感情はその詩情の組み合わせではないかと。だから、この映画でもそのように語られているのかなと思った。

 この6月ポルトガルのValençaというスペインのガリシア地方との国境の地から同国の聖地サンティアゴ•デ•コンポステーラまで120km歩いた。その時、僕はたくさんの光に出会った。かつて人々は皮でできた靴を履き、麻でできたボロ衣をきて、この道を歩いたはずだ。時折現れる湧水で身体を清めるも、決して快適とは言えない身なりでこの道を歩き、祈りを歩みに換えていった。僕がこの道を歩くずっと前から、この光たちはカトリック教徒にたくさんの喜びを与えただろう。その光の中には、川に乱反射する朝日が川沿いの建造物の陰によって線状に失われているもの、朝日に背を向けた山の稜線の形を切り取った光が朝靄を淡く照らすもの、湿地の沼に生えた芦の間を見るものが歩くたびにストロボのように照らすものがあった。これらの光はもう何百年もこうしてこの道を歩く人々に細やかだが心を包み込むような詩情を与えたに違いない。あるものは、その光の中にまた明日この道を歩く意味を見出しただろう、またあるものはかつての恋人との慎ましくも愛し合った日々を見出したかも知れない。失ってしまった時間や愛した人、昼は飛び回るように散歩をし夜になれば側で添い寝した愛犬を思い出した人もいるだろう。その名前のない光は、あるいは名前のあるその他の光よりも私たちに人生について多くを教えてくれるのかも知れない。僕はこのどこに居てもいつもあったはずの「光とそれにまつわるものもの」をこの旅を通じて発見した。いつも見ていたはずなのに、見つけることができなかったそれらを見出すことで、僕はそれを発見したこれまでのすべての人と心を通わすことができた。僕らは詩情を通じて、何世代にもわたって旅を続ける蝶のように、これまでそしてこれからの人々と生きる意味を共有し続けることができると思った。

おわり

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