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往復書簡: そこにエゾマツの群生するところ #3 かず → みーさん

読書とは一番遠いところから現実に触れること、旅とは一番近いところから空想を描くこと。完璧な対義語。

みーさんへ

昔から、読んでいる本の余白にそのとき思っていたことや日記を書く癖がありました。学生の時トルーマン・カポーティをよく読んでいました。「真夏の航海」という本で、表紙には映画「ドライブ」の時のキャリー・マリガンのようなショートヘアーの美女が、水丸さんによって書かれています(表紙は下)。そういえば、映画「17歳の肖像」の時のキャリー・マリガンは超越的に可愛い。いい映画です。

まさにこの本を読んでいた2015年、僕は就職活動をしていました。真夏の航海を友人に貸して、返してもらったときに「そんなこと考えてるんだな」と言われたので、びっくりしたことを覚えています。読み返してみると、先の「読書とは一番遠いところから現実に触れること、旅とは一番近いところから空想を描くこと。完璧な対義語。」と汚い字で書いてあるページがあり、自分でも何のことかよくわかりませんでした。

■理解すること

みーさんからの復路の書簡を頂き、その文章を何度も読み直しました。一番はじめに思ったこと、それは「ずっと大きい」でした。特にそのように思った箇所を引用します。

意(こころ)は身体の限界を迎え、自分自身とは無関係に継続できない時もあれば、リソースの不足により意図的に断念される場合もある。だから続けることができない理由は単一には表現し切れない。ただ旅に必要なものとして「自」と「意」はキーワードになると思う。

https://note.com/mi_san_nk/n/n80fb33bb77a0

初めの往路で僕は旅に関する質問、「どうして旅を続けることができないのか?」を投げかけました。上はそれへの回答の核だと思いました。そして、人の生死に触れるみーさんだからこその視点だと思い、ハッとさせられました。往路の問いの通り、僕は旅には終わりがあると思っていたのだと思います。でも、きっとそれは違うのかもしれない。

■更なる着想

先日、三島由紀夫の「美徳のよろめき」を読み返しました。同じタイミングでこの本を読んでいたYちゃんと話していた時、小説が終わったあとの解説?を山田詠美が書いていたという話になりました。あれ、昔読んだときあったかなと思い、解説が書かれた日付を見ると令和3年となっていました。解説って、時代ごとに変わるんですね。それもそうか。

山田詠美の短編集「風味絶佳」は学生の頃読み、爽やかな文章だったなという記憶があります。なので三島由紀夫の解説、しかも不倫小説のそれを書くことについて、なんだか意外と思いました。でも彼女の他の本を探していると、

「ひざまずいて足をお舐め」

を見つけました。どうやら僕の勉強不足だったみたいです。ひざまずいたうえに、足も舐めさせるなんて一度に2つのことを要求してくる傲慢な嬢には、やはり2回の謝で迎えるべく、したがって謝謝妳

この本はSM嬢から小説家になった女性とその知人との会話で成り立っています。でもきっと、題材などなんでも良い、どこにでもあるストーリーや普通の関係性の中に、人間らしさを見出すことがとても上手な方と思いました。

芥川賞を獲った金原ひとみは、山田詠美に影響を受けたといいます。蛇にピアス。僕は金原ひとみが受賞したときに、選考委員の宮本輝が残したコメントを忘れることができません。ちなみに僕は宮本輝の愉楽の園が好き。

「読み始めたとき、私は「ああまたこのて(原文傍点)の小説か」と思ったのだが、読み終えたとき、妙に心に残る何かがあった。それで日を置いてもう一度読み直した。」「作品全体がある哀しみを抽象化している。そのような小説を書けるのは才能というしかない。私はそう思って(引用者中略)受賞作に推した。」

芥川賞のすべて•のようなもの

あー、そう、それそれ。際立った細部が優れていることもある、でも卓越した全体があってもいい。

耽美を求めた三島から続き、山田、金原と脈々と続く地下脈を流れる水がキラキラと光っています。そして、その地下水はどこかで湧き出て、懐かしい里山をちろちろと愛らしく流れて、米の一生に添い遂げながらも、最後には大海原に導かれては大気とダンスし、山あいに降り注がれるのだろうと。

みーさんの文章に触発され、2つの着想を得ました。

1. 少なくとも「思想」は肉体の限界を迎えても、その旅を続けることができること。もっと言えば、それはまるで遺伝子のように、宿主も気づかないうちに世代を越えて運ばれ、変化していく、ドーキンス。

2. 自分のことを一番賢いと勘違いしていた学生のあの日に僕が小説に書いたことは、そんなに間違っていないということ。つまり、際立った細部を求めることが旅であり、卓越した全体を求めることが読書なのかもしれない。

◼️編み物としての結び

改めて、素敵な復路の書簡を頂きありがとうございました。こうして文章のやり取りをしていると、みーさんがどうして沢木耕太郎が好きなのかが少しずつ分かってきた気がします。我々の旅はこのような文章化を通じて、やや全体感を帯びていきます。またそれを束ねた一連の文章の塊(つまり往復書簡全体)は、未だ見ぬ抽象化された意味をもっているのだと信じます。

そう思うとなんだかワクワクしませんか?ペルシャ絨毯はそれを編む前にすべての絵型が決まっています。でもこの往復書簡はそうではない。最後にどういう絵柄が出てくるかはわからないのです。そんな卓越した全体をみーさんと編んでいけたらうれしい。

京は後の祭り、わさびで食べる鱧のおいしい季節。ご自愛ください
かず

P.S. 祇園祭のペルシャ絨毯、綺麗でしたね。


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