この世の小さくて大きな地獄
お笑い芸人のラランドが好きだ。
数年前「大統領とSP」という漫才を見たとき、一瞬で虜になった。サーヤのとぼけたSP役も、ニシダの不自然に滑らかな横滑りの動き(SP役のサーヤについていくとき)も全部面白かった。
この人たちはいつも何を考えているのだろうと思い、Youtubeチャンネルを覗いてみると、実に様々な(多くの場合はどうでもよいこと、)について2人が話し合っている動画が出てくる。
高学歴かつ下ネタが大好きな大学生が、深夜の渋谷・魚民で夜通しで話している内容を盗み見ているような気がして、とても面白い。あの日の知性と時間の無駄遣いを今も代行してくれているような感覚を覚える。挿入ゲームと架空小説のタイトルの動画が個人的には大好き。
その中でも僕が特別面白いなと思ったのが、「お母さんヒス構文」の動画。
詳細は本編を見てほしいのだが、要点としては下記の通り。
こういった日常に潜んでいて、誰もが経験したことがあるひどい体験に「お母さんヒス構文」というシンプルなラベルを付けるサーヤは天才。
きっと、これは僕たちの日常に潜む小さな地獄。
他にも色々な地獄がある。例えば、
いずれについても、日常の中で繰り返し見られる光景です。
それぞれの例について思うことは、
例1)は彼女が「お皿を洗っていないこと」と「ゴミを捨てていなかったこと」と対等に議論できると思っている点
例2)は「男の浮気」と「女の浮気」が等価であると思っている点
ここで言いたかったことは、2つの物事が対称に議論できるものだと考えられていることが問題なのではないかということです。もちろん、上記の2つの例について、何も問題がないという人もたくさんいると思いますが、僕の考えは結構異なります。
この問題が生まれてしまった原因は、あらゆる現象には固有の事情や背景があることを無視しているからかなと思います。
彼氏はゴミ出しの量がすくなかったので、今回は出さなかったのかもしれないし、男女には恋愛に関して根本的に違う考え方があるのかもしれないと思うことがとても大事なのではないかと思うのです。
「お母さんヒス構文」の話についても同じだなと思いました。
きっとお母さんにしか見えていなかった世界や発言の背景があるのではないかと思います。少し違った画角で見ると、この文法が成立する理由もわかる気がします。
現象の数に比して、きっとその背景の数は少ないと信じるとすると、じっと息を止めて相手の話を聞いて、可能な限り相手のことを理解したいと思いました。
おわり
出展:写真は山形大学が新たに見つけたナスカの地上絵
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2409/24/news123.html
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