「エネルギー」という言葉のあやしさと本質について②〜映画PaleBlueDotを見て
①はこちら。
続きを書きます。note楽しい。
独特なカルチャーを持つボディワークという界隈。心理学という学問体系を背景に持つ臨床心理学のセラピーとも、医学とも違う。人間についての独特の、しかも多種多様のコスモロジーを抱える世界。技法の数だけ人間理解があるということが出来る。
そこで多用されるエネルギーという言葉。
いわゆるスピリチュアル界隈でも中心的なキーワードであることがさらに私をもぞもぞさせる。
なんか、もうちょっとあるだろうと。ここ(各種ボディワーク)で言われるエネルギーとはなんぞやと種々の学問領域を渡り歩き、とうとう東北大の医学部で研究するというところまで行ってしまったワタクシの人間探求フィールドワーク。
そして一廻りして、今思う。
全てはエネルギーだと!
ずっこけた人ごめんなさい。
物理学どこ行った。宇宙も、大学院で研究していた宇宙とだいぶ違う宇宙になってしまった。申し訳ない、学費を出してくれた親に。
しかし、よくわからないものを何でも投げ込める便利な言葉としての「エネルギー」ではない。
そもそも、ボディワークってなんですか、と聞かれたら。
結構難しい質問。だから別記事で書きたい。
ひとまず私は「心と身体はつながっているというアイディアで身体に介入する技法の総称」とお答えすることが多い。
具体的に言えば、手技療法も、運動療法も、ダンスやムーブメントを使ったセラピューティックなアプローチも、ボディワークに入る。
心と身体をデカルトの刃がバスっと切り離しすぎてしまった反省から生まれている流れの中にあるものなので、人間を総合的に扱おうという姿勢がある。よって、なにかひとつの確立した学問領域を背景に持たず、さまざまな見方が入り混じっている、良くも悪くも。
だから、例えばクライアントの「エネルギー」をみるんだよ、と言ったときにその「エネルギー」という一語と、医学・解剖生理学的な要素が必ずしも一対一対応していない。これがまず理系頭だと混乱する。
エソテリックな概念が背景にあるワークだと、エレクトリック・フィールドとかマグネティック・フィールドとか、なんかまた物理っぽい言葉で人間の「エネルギー層」を語られていたりして、しかもそのエレクトリックやらマグティックが、ほんとうにエレクトリック(電気)、マグネティック(磁気)なものをしてそう言っていることもあれば、「電気っぽいピリピリした感じ」とか「磁気っぽい引力斥力があるっぽい感じ」みたいなメタファーで使ってることもあり、ごっちゃになっている。
お願い、ごっちゃにしないで・・・溺れる物理学徒(瀕死)。
私はこういったことをすべて「エセ科学」とバッサリ切り捨てたりはしない。むしろ切り捨てられたら楽だと思う。切り捨てられたら私の人生はこのように(どのように?)なっていない。
切り捨てたいけれど、切り捨てられなくって余計辛いのだ。
それは、どう考え、どう要素分解し、どの学問領域・先行研究を参照しても、科学的な言葉になりようがないものが人間にはある、という濃い一人称経験をボディーワークを通して山程してしまったからだ。臨床リアリティというやつ(クラインマン)。
プラセボ効果、ノセボ効果、ホーソン効果。んなもん分かっとるわい。人は見たいものを見てしまう存在である。それも分かっとるわい。
こちとらブラックホール研究してたから、山ほどの雑音を除去して除去して、これ本物の信号だよね、思い込みじゃないよね、統計的ゆらぎじゃないよね、測定器の雑音でもないよね…って丁寧に丁寧に観測データの膨大な背景の中から本物の信号を確かめて拾い集める科学手続きの訓練をみっちりやっとるんじゃ。
そうやって丁寧に確認しても除去しきれない未知(未科学の)の何かが人間にはある。
確かに、ボディワークで起こる効果のいくらかは、さまざまな学びを深めるうちに医学・科学用語で、あるいは心理学の用語で、説明出来る要素は次々に見つかっていく。
エネルギーという言葉が指すもの。
それはあるときは、「血流」であったり「リンパを含む、”液の流れ”」であったり、交感神経の活性であったり、あるいは副交感神経の活性により交感神経の緊張が緩むことであったり、腹側迷走神経の活性により自己や他者とのつながりや安全感が回復することであったり(これも部分的には血流などの「要素」に対応したり、呼吸などの「機能」に対応したりする)、あるいはもっと心理学っぽい言葉で「その人らしい」表情や発言の回復だったり社会への適応性だったり…なんかカテゴリーをまたいでしまうのだ。
私はそれら全てを繋ぐ重要な要素として自律神経を見ているけれど、やはり生きている人間というのは、そこに還元できないレイヤーのものもあるのだ。
(・・・この話私ちゃんと着地できるのだろうか。書き出しておいて甚だ不安になってきた。とりあえず先に進もう。)
とにかく。
ボディワークがなるべく人間の全体性を扱おうとすれば、扱う領域が広くなり、そこにさまざまなカテゴリーの概念を導入していかざるを得ない。これは心理学だって医学だってある程度はそうだろうが、ボディワークはなんというかもっと大胆だ。大胆すぎて、国家資格クラスタの人から見ると時々やばい。しかしそれすらも包括する。だって人間ってホントはそういうもんなんじゃないのか?と。
厳密に、正確に、客観的事実だけ集めていこうとするとかえって見えなくなる、その人の存在を成り立たせているもの、ってあるのだ。要素と要素のつなぎのようなものにこそ宿る真実の何か。
だから。
その要素に還元できない、要素と要素の間に立ち現れてくるもの全ても含めてまるっと「エネルギー」という言葉に含むのだ。
そう、エネルギーは物理でいうと「量」を表す言葉です。
科学においては「仕事をする量」のことをエネルギーという。
そこから外れた定義で使うととたんにあやしくなってしまう。あやしい感じのエネルギーは、「量と質の両方」を同時にその一語に混ぜ込んでいる。そりゃあやしいわ、ディメンジョンが曖昧どころか質と量をまぜるというご法度。だが、怪しいと言われようと、人間を毎日見ていると限りなくそこには「質と量の境界自体があいまい」な世界だと感じる。血流やら自律神経やら呼吸の深さやら表情やら言葉の真実味やらなんやらかんやらの各要素とそれらをつなぐように、背景のようにその人に存在しているもののすべての質的なものと量的なものをまるっと「エネルギー」という一単語に託したくなる気持ち、分かるーーー!と思う最近なのである。
より全体性を正確に捉えるために曖昧な用語を使うのだ。
ある時急に、雰囲気が変わるクライアントさんがおられる。
セッションルームに入って椅子に座ってこちらを見る。その一連の動作佇まい息遣いすべてが、いやそれ以前に入ってきた瞬間まとっている空気の明らかな違いを、セラピストの心身が察知する。
この何かを、一言で超シンプルに言うなら「あれなんかエネルギーが変わったな」っていうことになる。時間とともにやがてそのエネルギーの構成要素であるところの、表情の変化、存在することに感じている安心感、クライアントの内的なつながりの深さ、姿勢、呼吸、抑揚、リズム、目の動き、後頭下筋群の緊張、背骨のしなやかさ、発声の変化、率直さの変化、選ぶ言語の変化などなどが見えてくるけれど、要素だけを見ているとかえって見えなくなるものが、「エネルギー」と総合的に、ちょっとピントをぼかすくらいの気持ちで感じてみてこそたち現れてくるその人の情報がある。
引いてみることで見える全景。
確かに、エネルギーという言葉はなんかあやしい。独特のあやしさがあり、使い勝手がいい分どれだけ適当にでも使える言葉である。
しかしだからこそ、人間がもともと持っているあやしさ・曖昧さ・アナログさを除去し過ぎそうになってしまう専門性の刃から救ってくれる言葉でもあると感じている。
なんとすでに3000文字も書いてしまった。
こんなはずではなかったのですが3に続きます。すいません、あと一回で終わります。そろそろPaleBlueDot、の話に戻ります!
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