継体天皇以前の隠された歴史
前回の記事で、こんなことを書きました。
紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃までを、一般的に弥生時代と言います。キングダムが描かれている紀元前3世紀~紀元後1世紀あたりに、現代日本人に繋がる渡来人が大量に日本に来たことになっています。時代背景としても、申し分ない。(「渡来人に関する妄想をハプログループから検証してみた」より)
この、紀元前10世紀~3世紀中頃という時期を覚えておいてください。
ここで日本の歴史にいったん目を移します。神の天孫降臨ではなく、「現人神」の天孫降臨については、記紀にも、旧事本紀にも記載されておらず、実は継体天皇以前の歴史事実の探求が出来ないようになっています。
その継体天皇は、531年に死去(日本書紀)したことになっています。
ここで注目したいのは、いわゆる弥生人が日本に渡来した時期、その弥生人がその後勢力を築いた時期、そして継体天皇が死に至るまでの時期の一致です。いつもの妄想ですが、史書において「継体天皇以前ははっきり分からない」ということは、「継体天皇以前は都合が悪いので隠してしまった」と考えています。それは、「渡来人(主に中国からのハプログループ)」が日本でクニを造り治めていた土地があり、天皇の万世一系を証明できないほどのDNAの交流や民族紛争があったからだと思います。
前回の記事から、中国からのハプログループとはただならぬ深い関係にあったことは否定出来ないのです。現に、日本人である私も「華南から来たハプログループ」なのです。
中国から一体どのように日本に渡来したのか。興味が湧いて、秦の始皇帝の時代、「日本にやってきた」と言われる徐福の痕跡について昨年訪れた地があります。
京都の新井崎神社です。(地図・京都府与謝郡)
実は日本各地に徐福渡来伝説があるのですが、ここはそのうちの1つ。近くに元伊勢の籠神社もあるので(後述)、行ってみました。下記の石碑に、秦始皇帝の文字が刻まれています。中国語ですね。
徐福も不思議な人物です。始皇帝側から見ると「金銀財宝を盗んだ詐欺師」であり、日本側から見ると「大陸の文化を伝えた偉人」なのです。これは日中合作で本当の徐福像を隠したと妄想し、呂不韋が除福だったのではという記事を過去に書いてきました。
日中合作だったかどうかは置いといて、これは中国の歴史だけ追っていてはダメだと分かりました。日本側の歴史の成り立ちを調べ、「何が隠されているのか」を知らない限りは、価値ある妄想は出来ない、と。
それで新井崎神社から車で30分ほどの、籠神社を訪れました。(地図・京都府宮津市)
ここから先は撮影禁止でした。実は社務所でこっそり売られている書籍があり、それを買うのも目的の1つでした。
こっそり浦島太郎的なのを撮ってしまいました。倭宿禰命です。
倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は海部家四代目の祖先です。もとは「珍彦(うづひこ)」・「椎根津彦(しいねづひこ)」・「神知津彦(かんしりつひこ)」・「槁根津日子(さおねづひこ)」と呼ばれていましたが、神武天皇東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策により天皇を無事に大和へと導いた大和建国第一の功労者として、神武天皇から「倭宿禰」の称号を賜りました。倭宿禰命(やまとすくねのみこと)は倭国造であり、大倭国造の祖・大倭直の祖でもあります。(Source:https://www.hashidate-alook.com/profile.php?id=1505195391)
その海部81代当主が書いた書籍を、どうしても読んでみたかったのです。詳しくはまたの機会にご紹介しますが、下記の文章に触発されて、歴史を妄想するようになりました。
「おおよそ、記紀の開化朝以前の史伝には、それが正史であっても、多分に信仰の面が含まれているので(中略)、その時代にも、完全な人間としての歴史はあったに相違なく、只それが、そのままに伝承されていないだけなのである。吾人は、その神話伝説のように変形したところの史伝の中に、真実を見出して、これを、現代及び将来のあり方の基盤としなければならないのである。あまりにも神秘化された過去をそのままに歴史事実と考えることも、又、それを全くの神話伝説とし、歴史には縁の遠いものとして顧みようともしないことは、そのいずれもが、大いなる間違いなのである」
(554~555ページから引用)
アカデミックであろうとなかろうと、歴史を探求することに意味を感じています。いつか、学習院大学の鶴間和幸教授とお会いしたいです。
お読み頂きありがとうございました。
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