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羌族の痕跡~姜寨遺跡

今まで当ブログでは、秦の始皇帝(嬴政)が呂不韋の実子で、父・呂不韋=羌族の血が流れていることをいくつかの方面から考察してきました。

そもそも、嬴政が呂不韋の子であるということについては、中国の正史である「史記」の新始皇本紀や呂不韋伝に明記されていることであるため、考察というのはその裏付けをしてきた、ということになります。

呂不韋が羌族であるということについては、間違いありません。この羌族という一族は、前漢の劉一族に排除されて歴史の表舞台から一時期消えていくわけですが、それまでは中華全土に影響を呼ぼしていた一大氏族であったことは評価・考察に値するでしょう。

今回はその羌族の遺跡について書きたいと思います。

姜寨遺跡

中国・陝西省西安市に、羌族の遺跡である「姜寨遺跡」があります。ほとんどの日本人が知らない遺跡でしょう。

村(復元イメージ)
住居(復元イメージ)


場所はこちら。

住所:陝西省西安市临潼区人民北路31号

西安中心部の東に位置しています

拡大してみると…

姜寨遺跡という表示があります

マップの拡大画像を見て既に気づいた方もいると思います。

この姜塞遺跡のすぐ南側には「驪山」があります。すぐ西側には兵馬俑博物館や秦始皇帝遺跡公園があります。秦の始皇帝が、縁もゆかりもなければ思い入れもないエリアに、自分の墓を造るでしょうか。自分ごととして考えてみると、一般人でもそれは考えにくいことです。

秦の始皇帝が眠る場所

自分が羌族であることを誇りに思い、自らが永遠に眠る場所として選んだのがこの地だったのでしょう。

秦始皇陵

始皇帝の巡幸ルートは羌族・縁の地を巡る旅であり、中華の歴史上初めて「羌族」が統一をしたわけですから、それまで脈々と受け継がれてきた「血」に対しても相当の思い入れがあったのだと想像します。

始皇帝が活躍する頃までには、羌族は中国の様々な場所で拠点を持っていました。

この姜寨遺跡に関しては、始皇帝から更に遡って紀元前6600年から6400年頃のものです。中国・原始文明の華とされる「仰韶文化」が花咲いたエリアでもあります。仰韶文化は紀元前5000年から紀元前2700年あたりと言われてますので、そのベースにあったのが羌族の文化だったと予想します。

文化

紀元前6000年頃は、日本は縄文時代で下記のような住居に住んでいたと考えられています。

既に画像を掲載しましたが、姜寨遺跡の住居復元イメージと似てませんか?こちらも掲載しておきます。

以前考察した通り、羌族が日本に渡来して文化・文明を伝えたと考えると、住居が似ているということも偶然ではないと思います。

最後に

「羌族が統一したのが秦という国家であった」ということは、中国では恐らく大声では言いにくいのだと思っています。但し、古代中国において歴史の重要な役割を担ってきた民族であることは確かです。

羌族はその後、様々な混血を繰り返していくわけですが(当然漢民族にも溶け込んでいく)、現在では31.29万人(2021年の統計)が羌族の人口とされています。1999年の統計では20万人弱だったので、長いスパンで見れば少しずつ増えているようです。

言語(羌語、西南官語)も残っていますし、どこかの国が吹聴するような「少数民族弾圧」や「ジェノサイド」なども垣間見えません。それはDouyin(グローバル版はTikTok)で「羌族」を検索すれば分かります。本当に様々な動画がアップされ、どのような文化を持った民族か分かります。もちろん、他の少数民族然りです。なぜ新疆ウイグル自治区だけ弾圧が必要なのか、誰も説明ができません。

Douyinが果たしている役割は非常に大きいと思います。

中国という国は理解しようと思っても出来るものではなく、行くたびに圧倒的な土地の広さと歴史に打ちのめされます。日本という小さな島国にいては、イメージが先行して実像を理解することなど無理でしょう。

日本と違い、中国では50以上の民族が共存共栄しています。そしてそれらの文化は尊重され残っています。歴史を学び、善悪二元論で争い事に持ち込む国が一体どこなのかを理解して、共存共栄の方向に正す時期に来ている気がします。

<追記>
安徽省临泉县庙岔镇姜寨村にも姜寨村があります。漢の光武帝である劉秀が賊と戦うためにここに来たとき、強い抵抗にあい、そのため「羌寨」と呼ばれるようになったそうです。つまり、漢民族の敵だった雰囲気が伝わってきますね。

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