韓「南陽割譲」の新解釈と「騰=辛勝」説
鶴間和幸先生の著書「始皇帝の戦争と将軍たち」を読み終えました。
大変読み応えのある内容で、特に始皇帝の「近臣集団」、つまり秦の将軍や文官たちが始皇帝に与えた影響や始皇帝との関係性について、良く理解することが出来たと思います。まだ読んでない方は、ぜひ読んでみてください。
今日は、キングダム本誌で活躍中の騰(とう)について少し書いてみたいと思います。まずは前述の鶴間先生の著書から引用します。
秦の将軍・騰(とう)
重要な人物であったにも関わらず、残されているデータが非常に少ないので、騰は謎の人物とも言われます。騰についてはさらに後述します。
「南陽」割譲の新解釈
詳しくは著書を読んでもらいたいのですが、この中で鶴間先生は「韓が南陽を秦に割譲した」部分の新解釈を披露しています。
鶴間先生は「南陽は既に秦に割譲されていた。にもかかわらず、韓側に信義に反する行為があり、韓王を捕縛するために騰が動いた可能性がある」としてます。
ここでも、実際に騰がどのような行動を取ったのかは分からないままなのですが、どうやら韓が滅ぼされた原因が一悶着あったように思えてきます。つまり、始皇帝はむやみに韓を滅ぼす行動を取ったわけではなく、「致し方なく」滅ぼす方向に舵を切ったようなニュアンスが伝わってきます。
そうなると、始皇帝という人物の再評価も必要になりますよね。頭ごなしに六国を滅ぼしていったわけではなく、韓とのやり取りがきっかけになって滅ぼすベクトルに向かわざるを得なかったという解釈も成り立つ気がします。そして、そのきかっけに関わっていたのが秦将・騰なのです。
騰=辛勝?
ここで鶴間先生の著書から一旦離れたいと思います。
紀元前227年、秦王・嬴政の命令で、燕の国討伐を、王翦とともに命じられた辛勝という人物がいます。この辛勝、『新唐書』の「宰相世系三上」の中で「辛」という姓の出自を述べるくだりの中で、「辛騰」と書かれているのです。
本来は「辛勝」であるべきです。ところが「勝」が「騰」になっています。単純に書き間違えただけなのか…と考える方がいるかもしれません。
書き間違い…とも言い切れなくなってくるのが「資治通鑑」の存在です。中国北宋の司馬光が1065年の英宗皇帝の詔により編纂した歴史書が「資治通鑑」です。この中に面白い記述があります。
今度は「騰」が「勝」になっているのです。つまり、辛勝とは騰のことではないか、という説です。もし辛勝=騰であるなら、騰は韓を滅ぼした後、王翦と共に燕攻略に向かうということになります。
新たな発見がないと現時点では騰=辛勝を完璧に裏付けることは出来ないのですが、個人的には騰=辛勝だったと考えてます。南陽守に任命され、内史でもあり、将軍でもあった騰という人物は、始皇帝が最も信頼していた将の一人ではないでしょうか。新たな発見、新たな解釈は、ロマンがありますよね。ワクワクしますよね。
長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。他の記事は下記からご覧ください。