昌文君の死に迫る(後編)
後編を読む前に、前編をご一読ください。
今回の記事は、昌文君が死んだ土地と、秦・魏同盟が楚を攻撃した地(月知平原、什虎城)を妄想的に繋げて書いています。
楚軍の動き~大軍を編成していた平輿(へいよ)
楚としては、秦・魏同盟の更なる侵攻に備える必要がありました。ここで改めて地図を載せておきます。
月知平原・什虎城が南陽市あたりにあったと考えると、楚の長城を乗り越えてここを支配することの意味は、秦にとってかなり大きかった。というのも、次に楚に侵攻開始するにあたり、長城の攻略が不要になるからです。韓からの南陽割譲も大きかった(後述します)。
そして、楚と直接対峙することを避け、兵力を他所に向けるために、韓の領土を使って蓋をすることで、楚が直接秦に攻め入ることが出来ない状況にしたわけです。
これは非常に賢い。
情勢から見て、総司令である昌平君が考えた戦略であることは、ほぼ間違いないでしょう。
楚は、否が応でも南陽を奪還しなければなりません。いつでも南陽に侵攻出来るように、楚が軍を配置したのが…南陽の東にある平輿(現在の河南省駐馬店市)なのです。
平輿はもっとクローズアップされるべき
なぜ平輿に楚軍が布陣したことが分かるかと言うと、それは紀元前225年の李信による楚侵攻を見れば分かります。改めてこのあたりの時系列を記載しておきます。
昌文君が死んだ年、そして昌平君が丞相を罷免され郢陳に送られた(自ら行った)年の翌年に、李信は将軍として楚攻めを開始します。その時のルートを妄想してみました。
これを見ると、割譲された南陽のすぐ東が平輿(現在の河南省駐馬店市)であることが分かります。ここで昌文君が死に、翌年に李信が楚の大軍を撃破するのです。
この一連の流れの中で、やはりなぜ罷免もされていない昌文君が44歳でこの楚の地で死ぬのかが理解出来ません。
昌文君がなぜ死んだか
改めて妄想すると…
1.はちょっと考えにくいですね。一説ですが、昌平君の弟とも言われていた昌文君です(昌平君より1歳年下)。昌平君と違い、免職になる理由が無いからです。
※昌文君は考烈王(昌平君の父親)の弟だとする説もありますが、生まれた年から判断し、昌平君の弟だという説を有力視します。(昌平君:BC271年生まれ、昌文君:BC270年生まれ)
2.は個人的に一番濃厚だと思っているのですが、密通していた情報を嬴政が入手し、刺客によって殺されたのではないでしょうか。この説だと、左丞相を罷免する前に死ぬことが出来ます。でもなぜ平輿なのか。ストーリーが必要です。
3.は昌文君は武将でもあったので、もしかしたら李信が10万の兵で攻撃する前哨戦として、昌文君が楚攻めをしたのかな…という説です。でもこれは秦にとって名誉の死なので、史記などに記載されないわけがないのかな、と。ドラマチックではありますが。
ここでの私の一応の結論としては、2.で考えたいと思います。ストーリーはこうです。
妄想小説
昌平君の反乱
これは以前書いた記事をご覧ください。昌文君が死んだ翌年の紀元前225年、郢陳で反乱が起きるのです。この地に昌平君が送られた、ということではなく、罷免された昌平君が自ら反乱の地として郢陳を選んだと考えたほうが良いでしょうね。
昌文君が殺された平輿は、秦軍が必ず通ることを昌平君は知っていた。それで、李信軍がここを通る時にわざと負けたフリをして、実際には楚軍は昌平君のいる隣の郢陳へ「反乱軍」として潜伏したのです。
ただの民衆の蜂起であれば鎮圧するのは簡単でしょう。なぜ李信軍が反乱鎮圧に向かい、手こずったのかは「打ち負かしたはずの楚軍がいた」からです。全て昌平君の策でしょう。李信軍の背後を急襲した楚の項燕軍も、昌平君の指示で動いたはずです。
最期に
今回も妄想全開で非常に長くなってしまいました…少しドラマチックなストーリーにしたのは、昌平君にも大義名分があったことにしたいのです(笑)。
そこまでの理由がないと、あれだけ聡明な昌平君が反旗を翻すことは難しい設定だと思っています。ただ、実際のキングダムではこういう流れにはならないでしょう。なぜなら、嬴政が悪役になってしまうからです。
私のストーリーだと、改めて李牧の強かさもクローズアップされます。史実ではこうあってもおかしくないとは想いますが、実際はどうだったのでしょうね。昌平君の動きは、色々と妄想するだけで楽しくなります。また、別のストーリーが思い浮かんだら記事を書いてみようと思います。
本日もお読み頂きありがとうございました。