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第440話考察・暗殺の首謀者

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第440話は、キングダムのコミックス第41巻に収録されています。

キングダムの考察記事を書き始めたのが割と最近なので、「過去の考察記事も読みたい」というリクエストを頂くことがあります。

その中から、「既に読んだことがある方でも、ここは重要だ!」と思われる箇所をピックアップして書いてみます。今後ポイントとなる「楚」と「昌平君」について、第440話をベースに少し復習しましょう。

意外とサラッと流してしまいがちなのが、楚王・考烈王の崩御です。440話~441話で原先生も簡潔に描いた場面を、少し画像で整理してみます。

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この図は、私の個人的な見解も含まれています。

✅昌文君(BC270-226)は考烈王(BC290-238)と兄弟という説があるが、推定出生年が20年も離れているため、昌平君(BC271-223)と兄弟であるという説を採用。
✅それ以外は概ね史実の一般的な情報がベース。
✅赤丸は考烈王の子が楚王として即位した順番。昌平君を正式な楚王としてカウントするかは見解が分かれるが便宜上4番としている。

まずざっと見ると、「子無し」とされている考烈王には、少なくとも5人の公子がいたことになります。よって、普通に考えると、子供がいないということで考烈王が悩んでいた可能性はほとんど無いのでは?と思います。

それより注目すべきは、李園がもともと趙の人だったということです。

楚に対する影響力を強めるため、または李園一族の政権中枢への参画を図るため、妹である李環を考烈王の側室にするという政治的な「娶らせ」を演じたのではないでしょうか。そう考える理由としては、2つ。

✅考烈王が一方で秦王・昭襄王の娘を側室としていた
✅幽王の死後、同母弟の哀王を即位させるものの、哀王の庶兄・負芻を擁する者らに殺害され、その際に李園と李環(哀王の母)も殺害された

後者については、「妾の子」である負芻が楚王となるわけなのですが、この妾と、負芻を擁する者たちが誰であるのか全く分からないのです。恐らく趙の影響=李園の一族が楚王であることを面白く思わない勢力があって、李園一族を誅殺したのだと思います。

楚もかなりドロドロしていたのですね。

第440話では、①の幽王が即位する年が描かれていまして、その裏で李園と媧燐が宰相になるという話の流れになっています。そしてこの3年後の幽王3年(BC235年)に、秦・魏の同盟軍が楚の什虎城を攻めるというわけです。さらにそこから7年後のBC228年に、幽王が崩御し、②の哀王が王となるのですが、即位から約2ヶ月ほどで暗殺されてしまうのです。

その名の通り、なんと哀しい王なのでしょう。どうやらリーダーシップのかけらもない弱小王だったようです。

代わりに即位したのが③の負芻。彼はBC223年、秦の王翦軍・蒙武軍による侵攻により、捕虜になってしまいます。この時、楚のために立ち上がったのが秦の丞相を罷免されていた昌平君なのです。

このあたりはかなり深い妄想記事を書きましたので、ご一読ください。

楚は大国でありながら、考烈王亡き後は王位のごたごた、各国の政略にも翻弄され、滅亡への道を辿ったのではないかと思われます。

結局楚は、昌平君と項燕が秦に敗れて王家が途絶えたと思われそうなのですが、実は昌平君の子・熊心という人物がまだ残っていたのです。これはまた後日、記事を書きたいと思います。

※書きました

本日もお読み頂きありがとうございました。

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