昌平君が描かれた意味と壮大な伏線
前回の記事で改めて書くことにした、昌平君描写の謎について妄想していきたいと思います。尚、今回も史実に沿った妄想を書きますが、キングダムを読まれている方はご注意ください。
昌平君の謎に迫り過ぎてしまうためです。
まずは前回の記事を。
キングダム本誌・第657話で特に下記のコマが非常に気になってしまったのです。
ここでなぜ昌平君のコマが割り込んだのでしょうか。
「背負うもの」とは昌平君なのでしょうか。
単に、今回の秦魏同盟を画策した張本人が昌平君だったため、秦の中華統一を「背負った戦」だという意味で、昌平君のコマを描いたのでしょうか。いや、そんな安直なストーリーではないはずです。
読み切り作品「蒙武と楚子」
キングダム連載前に、原先生が描いた作品があります。「蒙武と楚子」という作品で、楚子というのが昌平君です。ここに、今回の伏線を妄想するヒントが有りました。
※尚、この記事では、呼び方を「昌平君」に統一します。
この読み切りを今読み返すと、かなり胸アツでネタバレが凄いのです。ここで、読み切りを読んだことがない方のために、ポイントだけ纏めてみます。
<史実にある点>
・昌平君は楚の公子だった
・紀元前230年、昌平君は郢陳に送られる(楚民の人心安定のため)
・紀元前225年、郢陳で反乱が起きる
・紀元前223年、将軍・王翦と副将軍・蒙武が楚を攻める
<キングダムで創作された点>
・蒙武と昌平君が幼馴染だった
・昌平君は人質として秦に来た
・「血」のために昌平君は楚に帰った
「紀元前225年の反乱」については、以前、昌平君が首謀者かもしれないという記事を書きました。
この反乱の後の紀元前223年に、なんと昌平君は楚王になるのです。これを討つために秦から出陣するのが、大将軍・王翦と副将・蒙武。間違いなく、キングダムのクライマックスの1つとなるでしょう。ここに至る伏線として、「蒙武と楚子」を描いたと思います。
そこでの2人は、若い頃はまるで嬴政と信のような間柄なのです。
この2人が戦場で相まみえることになるとは…あまりにも悲しいドラマであり、「なぜ昌平君が…」というところがキングダム芸人(芸人ではない)としては非常に気になるところになってくるのです。壮大なドラマが予定されているはずです。
昌平君の伏線
「蒙武と楚子」では、楚攻略のための戦略立案を嬴政から命じられた昌平君が、なぜかまったく立案することが出来なくなり、心身ともに疲弊した結果、楚に走る場面が描かれています。
この作品を読んだ方であれば、第657話でなぜ「昌平君のコマ割り」があったのか、そしてそれが「今後の布石」になっているのか、気づくはずです。
下記の記事では、この戦の昌平君について「何らかの伏線が絶対に描かれる」と予想していました。自画自賛ではないですが、かなり鋭い読みをしたと思います。
一方の蒙武ですが、幼馴染として描かれた昌平君の立案である秦・魏同盟を成功させるために、この「什虎城攻略(月知平原の戦い)」は絶対に負けられない戦いなのです。2人の名を中華に轟かせるためにも、絶対に勝ち切らなければならない戦いなのです。
きっと楚の満羽は、そういう「想い」に基づく「野望」を打ち砕きたいのでしょう。満羽も、きっと汨国(前回の記事参照)を守るために「かつてそうだった」のだと思います。その想いから解放された今が、最も強いのだ、と。
そう考えると、蒙武vs満羽は「想い」の重さを賭けた一騎打ちなのです。
昌平君がこだわる「血」とは
楚王は代々、熊姓でした。昌平君とはニックネームのようなものであり、本名は「熊啓(中国語・熊启)」だったと言われています。
この楚王の熊姓については、過去記事でも書きました。
楚の公子である昌平君は、秦で育ち、嬴政のもとで相国にまで登りつめました。人生の絶頂期ではないでしょうか。その昌平君ですが、史書では下記のような記載があります。
「按,楚捍有母弟猶,猶有庶兄負芻及昌平君,是楚君完非無子,而上文云考烈王無子,誤也。」司馬貞『史記索隠』より
つまり、昌平君は楚王・負芻と兄弟だった、と。さらに、中国の百度百科には始皇帝のいとこだった、という記載があります。
秦始皇的表叔。百度百科より
昌平君は、楚の考烈王と秦の昭襄王の娘のあいだの子とされています。昭襄王は嬴政の曽祖父です。これについては、私は嬴政の父親が呂不韋だと思っていますので、いとこ同士で争ったということは無いと考えています。
昌平君の家系については別の記事をご覧ください。
私の妄想はこうです。昌平君は楚の公子として秦で過ごします。この時代、公子が他国で暮らすこと(政策による理由が多かった)は一般的なことでした。
嬴政は、楚の公子であり才能豊かな昌平君を登用します。頭角を現した昌平君と共に、嬴政は中華統一への道を進みます。
紀元前226年、嬴政は昌平君を丞相の職から降ろします。楚の攻略に必要な兵数の議論を巡り、秦最大の功労者・王翦が将軍職を罷免となった際、秦王政を諌めたためです。この時、王翦が楚攻略のために必要だと言った兵数は60万人。嬴政が最も信頼していた李信は、20万で良い、と。嬴政の目には王翦は臆病の老人に映り、結果的に李信・蒙恬が20万で楚攻めを開始するのです。
王翦の60万人を支持した昌平君ですが、結果的に嬴政は王翦の将軍引退を受け入れ、昌平君を罷免し、郢陳(現在の河南省周口市)へ向かわせます。ここは楚の民が多く住んでおり、民の動揺を抑えるのが目的とされています。
「もう俺の居場所はここ(秦)にはないな」
昌平君の胸に去来したのは、楚の公子であるにも関わらず嬴政のために尽力し、その嬴政から職を解かれた虚しさ。同じく丞相から罷免された呂不韋と同様に、蜀のような僻地に左遷されるかもしれない。最悪は、「用済み」として処刑されるかもしれない。郢陳行きは嬴政の昌平君に対する情けだったかもしれないですし、昌平君の最後の懇願だったのかもしれません。
前述の通り、昌平君はこの時の楚王・負芻と兄弟だった可能性があります。これ以上秦に尽力することも出来ないその後の人生を楚に捧げるとを決心したとしても、何もおかしくはありません。郢陳に向かう道中、昌平君は打倒秦の策を練ります。
そして、郢陳で反乱を仕掛けます(「反乱が演出された地」を参照)。秦軍は20万、大将軍・王翦が出陣しないのなら勝算はある、と。楚の大将軍項燕と呼応して、李信を背後から討つ計画です。
原先生がこの昌平君の裏の動きを妄想し、キングダムで描くかどうかは分かりません。ただ、「血」というキーワードを辿って妄想してみると、ストーリーとしては面白いと思っています。
余談
楚の詩人・政治家に屈原(紀元前343~277年)という人物がいます。
彼が楚の行く末を悲観して身を投げたのが、汨羅江です。満羽が恐らく士官していた国「汨国」のモデルとなったであろう、「罗国」があった楚の土地です。
「背負うもの」を自ら下ろして、人生の幕を閉じた屈原。何か因縁のようなものを感じずにはいられません。
本日もお読み頂きありがとうございました。下記の桓騎将軍に関する考察も読んで頂けると嬉しいです。
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