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衝撃の調査|不韋県はやはり要地だった
今回は、下記の記事でサラッと書いた南のシルクロードについて、検証してみたいと思います。「本当に不韋県は西側諸国と繋がっていたのか?」ということです。皆さんはどう思いますか?
すみません、本題に入る前に以前書いた下記の記事を改めてご覧ください。重要です。
私の仮説では、不韋県という場所は西側諸国と繋がる「秦にとっての要所」です。ここを「左遷の地」とするのは「愚かな国・愚かな王」になってしまいます。なぜなら、私たちが思う以上に国内戦略は国外戦略と結びついているからです。現代のみならず、古代でもそうに違い有りません。
その戦略とは、大まかに下記です。
<国家事業に必要な4つの戦略>
①通商(お金)
②鉄・青銅(武器)
③人(奴隷・徴兵)
④文化・芸術(権威・交流)
※( )内は目的
この4つを揃って入手できた可能性があるのが、不韋県なのです。では見ていきましょう。私には呂不韋が、まるでロスチャイルドやユダヤ商人のような印象すら持つことになってしまったのです。
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