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呂馬童の正体
さて、今回は呂馬童なる人物がテーマです。皆さんはこの武将を知ってますでしょうか?
項羽の最期
呂馬童は、劉邦軍の将軍でした。項羽の最期に関わってます。項羽を知らない方もいらっしゃると思いますので、簡単に説明したいと思います。
中華を初めて統一した秦は、始皇帝亡き後、内部からも外部からも崩壊しつつありました。陳勝・呉広の乱をきかっけに各地で反乱が勃発し、覇権争いに名乗りを上げたのが楚の項羽と漢の劉邦です。
「垓下の戦い」は、紀元前202年に起こった楚と漢の最後の決戦です。漢軍に包囲され「四面楚歌」状態にあった項羽は、わずかな兵を率いて脱出を試みますが、最終的には漢軍に追い詰められます。その際、項羽は漢軍の中に旧知の呂馬童を見つけ、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首を刎ねて自害したのです(『史記』より)。
呂馬童の評価
呂馬童には、「かつての主君を裏切った」と評価されることもあり、また、論功行賞に目が眩み、その場にいた漢軍の仲間と共に項羽の遺体を切り刻んだ、という酷い評価も存在します。
創作が織り交ぜられた『史記』
当ブログでも拙著でも様々な『史記』の捏造・隠蔽を考察してきましたが、どうやら呂馬童についても「これは…」と思われる節があります。
※拙著には「呂馬童」については掲載しませんでした。理由は後述します。
この『史記』における問題については、作家の浅田次郎も「司馬遷はかなり盛った」と明言していますし、また、漫画『達人伝 -9万里を風に乗り-』の単行本最終巻でも、作者の王欣太が「司馬遷の創作がかなり入っている」と指摘していました。
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呂馬童に関して
実は呂馬童、元々は項羽の部下で後に漢王・劉邦に寝返ったと解釈されています。これは項羽が垓下の戦いで呂馬童に会った時に「旧知の仲」という記述があったことと、『史記』に呂馬童が「騎司馬」として項羽軍に所属していたことが記されていたため、一般的にそのような解釈がされてきたようですが、果たしてこれは事実なのでしょうか。
『史記』の呂氏に関する記述には矛盾点や曖昧な点が多いのですが、呂馬童の場合も「旧知の仲」という表現が、具体的にどのような関係を指すのか不明瞭です。また、呂馬童がいつ、どのような経緯で項羽軍から劉邦軍に寝返ったのかについても、記述がありません。
呂馬童が最初から劉邦軍だった可能性
今まで司馬遷が『史記』において、特に呂氏についての記述をあえてしてこなかったこと、また、創作により呂氏の偉業をなかったことにしたことを踏まえ、私見ですが呂馬童は最初から劉邦軍に所属しており、垓下の戦いにおいて項羽を討ち取る役割を担っていたと考えています。
①『史記』が呂氏について捏造・隠蔽を繰り返していること
②劉邦は呂氏のバックアップにより楚漢戦争を制したこと
③呂氏が項羽討伐において重要な役割を担っていたこと
上記の3点が考察ポイントです。全て過去にも考察してきたので詳細は割愛しますが、少し補足しておきたいことがあります。劉邦による論功行賞です。
一度、過去記事をご覧いただくとさらに明瞭になると思いますので再掲します。
この記事の中で、呂沢と呂釈之の2人の呂氏に関する論功行賞を記載しましたが、今回はこの2人以外の呂氏もピックアップしてみます。(但し前漢建国の論功と思われる呂氏のみ記載)
呂沢:周呂候(高祖6年1月1日に封建)
呂釈之:建成候(高祖6年1月1日に封建)
呂青:新陽侯(高祖6年1月27日に封建)
呂某:貰侯(高祖6年3月16日に封建)
呂勝:涅陽(高祖7年)
呂馬童:中水(高祖7年1月29日)
これだけの呂氏が封号を与えられたわけですから、劉邦の妻・呂雉を含めて呂氏一族の前漢建国への貢献度は大変大きかったと思われます。これは推測でしかありませんが、韓信・灌嬰と呼応して動いた呂馬童(呂勝も従軍していた)が項羽を追い詰め、彼の軍によって項羽が討たれたのではないでしょうか。それは「呂氏の偉業」になるため、司馬遷は伏せたのではないか?と。
故分其地为五:封吕马童为中水侯,封王翳为杜衍侯,封杨喜为赤泉侯,封杨武为吴防侯,封吕胜为涅阳侯。
項羽の遺体をバラバラにして勲功を得た5人は、それぞれ封号を獲得しています。呂馬童は中水侯に、王翳は杜衍侯に、楊喜は赤泉侯に、楊武は呉房に、呂勝は涅陽侯になっています。面白いのは、楊武以外の4人は高祖7年3月の論功行賞で、楊武に至っては高祖8年3月なのです。
高祖6年正月に、いち早く呂沢と呂釈之が封号を得たことは以前の記事の通りです。時系列でまとめてみます。
紀元前206年(高祖元年) 秦王・子嬰が降伏
紀元前202年(高祖5年) 垓下の戦いで項羽が敗れる
紀元前203年(高祖6年) 呂沢・呂釈之が封号
紀元前204年(高祖7年) 呂馬童が封号
やはり、いち早く論功行賞を行った呂沢と呂釈之は超重要人物だったと考えられますが、一方で呂馬童に至ってはその翌年です。
疑問
ここで疑問があります。
①なぜ同じ呂氏でも呂馬童は論功行賞が遅かったのか
②なぜ項羽の5体を持ち帰った5人全員の論功行賞が遅かったのか
実はこの2点について、自分の中で答えを見いだせなかったため、拙著に呂馬童を掲載することを躊躇いました。
呂沢については大将軍クラスであったことをブログにも書きましたし、拙著にも詳しく書きました。
呂沢の論功行賞が早かったのは当然ですが、呂馬童に対しては呂沢の論功行賞から1年後という遅いタイミングが不思議だったのです。
劉邦にとっては、項羽の首などそれほど評価に値しないものだったのか、それとも結果的に項羽の首を取ったことは功績として認めるにしても、垓下の戦いに至った時点では既に「詰んだ」状態であり、そこまで持って行った武官・文官に対して先に論功を与えたかったのか。このあたりの論功行賞のルールや概念が分からないため、もう少し当時の価値判断を探る必要がある、と考えています。
いずれにしても、呂馬童が項羽の旧知の仲であり、項羽自ら首を差し出した…という創作めいたストーリーに関しては、疑って見ています。恐らく呂馬童が項羽を討った功績を隠蔽するために仕立てたストーリーであり、氏族の結びつきが強かった古代中国においては、呂氏一族が劉邦の最大援護射撃であったことは彼の妻が呂雉であったことからも間違いがないことだと考えています。
本日もお読み頂きありがとうございました。
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