考察|呂氏の痕跡を夏王朝まで遡る
以前、河南の地に関する考察をしました。
今回は、中国成立の源流とされている「夏(か)王朝」まで遡って、考察をしてみたいと思います。
夏王朝を統べた禹とは
まず、禹(う)とは誰だったのでしょう。
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、羌族であったと思われます。また、中国の著名な歴史学者である顧頡剛(こけつこう)氏も、「夏王朝の人々はもともと中国古代の西部にいた羌族で、陜西から河南・山西に達した」としています。
このことから、夏王朝の主民族と禹は、羌族だったのでしょう。
この羌族の夏王朝が、殷に滅ぼされます。そしてこの殷を滅ぼした周に仕えたのが、羌族の姜子牙(呂尚)です。呂尚の祖先は、「夏王朝時代に四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐した」とされています。
ここから、禹と夏王朝、そして呂氏の祖先すべてが羌族だったということが分かります。
夏王朝の都はどこにあったのか
二里頭遺跡の発見によって、河南省偃師市の二里頭村に、夏王朝の都があったとされています。
あの呂不韋が封地としていた河南です。封地としていた場所・洛陽市の隣に、二里頭遺跡があります。
過去記事をご覧頂いている方はもうピンと来ているはずですが、この河南の地には、羌族が文化的・商業的に統治し続けていた痕跡が数多く出てきます。
夏王朝から続く河南での文化・商業
夏王朝は武力で統治していたわけではなく、農業を含む文化的な成熟がそのまま権威に繋がっていたようです。
ここから分かるのは、禹と羌族は農業に長けていた。そして、各地に出向いては「商人的な動き」をし始めていたということ。
商人=呂不韋そのもの。
呂不韋が突然商人になったわけではなく、夏王朝で治水を担っていた呂氏の祖先は、交通の便を確認しつつ、各地の産物を安く仕入れ高く売るという知識を得ていたはずです。そのようなベースの上に、呂氏の財力が培われていったと想像します。
やはり繋がってきますね。その文化的・商業的集積地が、河南だったわけです。戦国時代に洛陽が韓の領土であったにも関わらず、呂不韋が飛び地的に封地として滞在出来ていたのは、商人の不可侵的土地だったのかもしれませんね。呂不韋が邯鄲に滞在していたのも、商人だったからです。
下記はご参考まで。いかに呂氏ネットワークが広大だったかを裏付ける発見でした。
夏王朝時代に通商ルートは構築されていた
ここで再び、司馬遷の史記から。
古代中国では、一里が0.5kmでした。よって、五千里=2,500kmです。本当にそんなところまで、夏王朝の影響が及んでいたのでしょうか。二里頭遺跡から東南方向に直線距離2,500km進むと、バングラデシュに到達する距離です。
これを検証する前に、二里頭遺跡から発掘されたものを2つご覧ください。まずは礼器。これは祭事などに使われたらしいです。
中国全土からこの礼器が見つかっていることから、本当に遠方まで夏王朝の影響が広がっていたことが分かります。偉い身分の方が所有していたようです。重要なのは、やはり河川。河川のポイントになる地域に、重要な役職を配置していたと思われます。羌族は河川=水を統べた民だったのでしょうね。
現代中国でも重宝され高値で取引される玉(ぎょく)。その玉を使った玉璋(ぎょくしょう)も、二里頭遺跡から発掘されました。
龍の頭が特徴的なデザインで、なんとベトナム・ソムレン遺跡からも発見されています。
このソムレン遺跡までが約1,600kmあるので、五千里という表現はそれほど大げさな表現ではないように思えます。この玉の一大産地が、新疆ウイグル自治区のホータンです。
ちなみに、東に1,600km進みますと、あくまでも現代地図ですが九州に到達します。日本の竜神信仰も、ひょっとしたら夏王朝(羌族)の影響があるのかもしれません。実際、佐賀県・吉野ヶ里遺跡と羌族の繋がりを指摘している方もいます(中国人民インターネット版より)。
気になって距離を測定してみると…1,643kmほど。これは…ちょっと興奮しますね。
夏王朝=羌族=呂氏が繋がれば…
夏王朝の禹が羌族であり、禹を補佐した人(羌族)の子孫が呂尚。その呂尚の子孫が呂不韋であり、呂不韋の子が嬴政(始皇帝)という線が繋がります。
これは私が今まで考察してきたものを証明してくれるわけでもありますが、始皇帝がやはり自分のルーツ(羌族)を大事にする理由がここにあります。
統一後、始皇帝は会稽山にわざわざ登り、禹を祭るのです。会稽山は、禹の最期の地です。これは禹(羌族)を正当な始祖として認めていることと、その子孫である始皇帝が中華を統べることを正当化するものでもあったはずです。その始皇帝は呂不韋の子であるから、やはり羌族なのです。
余談:九州に来ていた渡来人
ウィキペディアにもある通り、秦氏は八幡神社を創祀した渡来人です。八幡総本宮・宇佐神宮(大分県)~二里頭遺跡が、約1,725kmです。「水を統べる」民であった羌族は、海を渡るという手段・技術も得ていたと思います。
秦氏が始皇帝の血縁であるのなら、羌族の血が流れているはずです。
面白いのは、西暦531年、この大分県にあの李信の子孫がやって来ているんですよね。
長くなりましたので、今日はここまで。お付き合い頂きありがとうございました。